人はみな死にます
人はみな死にます。ですから、自分がどのように死ぬのか選択してください。それを選択することが、神的な存在になることができる道です。
私はそのように理解しています。それが私の結論です。
因果法則から見ても、対象は主体の代わりに犠牲になることができなければならないのであって、絶対に裏切ってはなりません。
真の愛が存在するためには、その愛のために代わりに死んでくれるほどのものが必要なのです。
(『心情文化世界とマルチメディア』文孝進著)
ニューヨークのマンハッタンセンターで音楽を中心とする文化創造活動を続けながら、折々、一緒に活動するメンバーたちにフリースタイルで語られた、その言葉を集めたものです。
孝進様の言葉には一貫して、張り詰めたような、人生に対する緊張感が籠っています。
その信念の強さは、時として読み続けるのが辛くなるほどです。
信念の核心はどういうものだろうか。
それを十分正確に掴んでいるとは思えないものの、上に引用したような言葉が繰り返し出てきます。
これを見ると、2つのことが浮かび上がってきます。
① 何のために死ぬか、早く決める。それが自分を神的なものにする道である。
② 対象は主体のために絶対に犠牲になる。それが真の愛である。
我々と同じように、孝進様も原理を学ばれたでしょう。
そして、原理を上のように理解された。
絞り込めば、原理は2つのことです。
お母様も「原理は2つだ」と言われました。
① 感謝します
② 愛しています
さらに遡れば、イエス様も「律法は2つだ」と言い残しておられます。
① 心を尽くして主なる神様を愛する
② 自分を愛するように自分の隣人を愛する
膨大な量の言葉として蓄積されてきた神様のみ言葉を絞り込んでいくと、究極的には2つくらいになる。
なぜだろうと考えると、人が生涯の中で本当に実践できることは多くない。
せいぜい、2つ。
その2つでも、本当に全うできれば、人生はその目的を達成する。
しかし、絞り込んでいくときには、非常に高い緊張感が伴うようです。
自分が妥協なく生きてみて、自分の身をもって原理を探し出さねばならないのです。
孝進様の言葉に異常なほどの緊張感が漂っているのは、そのような実体験の背景があるからでしょう。
孝進様は1万曲の自作曲を捧げると決めました。
そしてある時、1日に100曲作るという異常な作り方をされました。
それを2回したそうです。
そういう作り方がいいのかどうか。
そういう作り方で、良い曲が作れるのか。
私には分かりませんが、尋常なことではありません。
1日に100曲作るためには、今作った曲をすぐに忘れ去る必要がある。
それを覚えていると、次の曲は出てこないのです。
100曲がほとんど終わるころには、頭がもうろうとし、全身がうずき始める。
死ぬかと思った。
数日間は、手も握れないほどだった。
こんな作り方をする音楽家は他にいないでしょうが、この異常行動の根底には、
「対象は主体のために絶対犠牲になる、裏切らない」
という心情があるのだろうと思います。
「自分を誇る」
という気持ちは、寸分もないのです。

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