サルはサルなりに、人間は人間なりに
時節柄、テレビでも今年1年の総集編を組むようになってきました。
今夜何気なくテレビを観ていると、世界遺産か何かの番組が今年放映したものをダイジェストで見せてくれる中に、どこかの国の森に暮らすサルが出て来る。
そこのサルが珍しいのは、数あるサルの仲間の中でも取り分け道具をうまく使って餌を食べること。
木の枝の切れ端をもってきて木の実を割って、うまい具合に食べたりするのです。
その様子を見ていると、我々人間の仕草に随分と近い。
膝を立てて座り、手に木の枝を握って木の実めがけて何度も振り下ろす。
2度か3度コツコツと木の実をたたけば、木の実は割れてサルは中身を容易に取り出せる。
確かにうまいものだな、と思う。
ところで、このサルはなぜこんなふうにうまく、かなり人間に近い振る舞いで道具を使えるのだろう。
そう考えた時に、
「サルには人間に最も近い知能があるのでこれができる、というのではない」
と思ったのです。
事実はもしかしてまったくその逆で、
「サルには人間に最も近い体の構造があるので、人間に近い知能が現れる」
と言ったほうがいいのではないか。
進化論的な議論ができるほど緻密な知識を持っているわけではありませんが、進化論の考え方では、生物はより高度な能力を獲得するように体を進化させ、その進化したものが他を圧して生き残ってきた。
例えば、馬なら木の枝を掴んで木の実を割るような芸当は、その蹄では逆立ちしてもできない。
しかし馬は木の実を食べたい。
そのためには蹄を改良しよう、もう少し細かく分かれた指のようなものが必要だ。
しかしこんな考えは、どれほど長い時間をかけたとしても実現できるようには思えない。
サルが木の枝を掴んで振り下ろせるのは、生まれながらに膝を立てて座れる腰骨の構造と、上下に可動域の大きな肩と腕、実に絶妙に分かれた5本の指などがあるからでしょう。
これら体中に配置された見事な構造があるお陰で、サルは
「木の枝を使って木の実を割ってみよう」
という知恵が湧く。
これは我々人間も同様です。
我々は今のような形、構造を持っているので、体操やフィギアスケートのような美しいスポーツを生み出せる。
今のような目や指を持っているので、絵画や染色のような芸術を生み出す。
脳細胞がどんなに優れていたとしても、こういう体の構造がないなら、今我々が享受しているような高度な文化文明はほとんど作ることはできなかったでしょう。
精神は身体の上に乗っている。
と言えば、唯物共産主義のようにも思えますが、そうとも言えない。
神様は神様なりに考え得る最高の理想イメージを描いて人間を設計された。
人間の精神はここまでの高みに至れるだろうという理想に合わせて、それを実現できる人間の身体を細部にわたって設計された。
おそらく我々はこの身体構造を持っているお蔭で、今後ともさらに遥か高い境地にまで昇っていけるのではないか。
馬は馬なりに、サルはサルなりに、人間は人間なりに、造られている。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
家に帰りたくない人たち 2016/05/21
-
ブータンの村には何もない 2019/09/01
-
「禁」よりも「断」 2021/06/10
-
ぐらはなぜ豹変したのか 2011/09/19
-
スポンサーサイト