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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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質問する講義

20181221 

講義をしたり礼拝の説教をするとき、聴講者に折々質問を投げかけることがよくあります。
そのやり方の利点と思えることはいくつかあって、例えば、

① 一方的な講義よりも聴講者の理解が深まる

講義を一方的にすると、聴講者は完全な受け身になります。
受け身というのは楽な立場で、自分で考えなくても講義者がすべて教えてくれる。
その時には分かったような気がしても、意外とその内容は記憶にも心にも深く定着しないのです。

ところが質問を受けると、自分の頭で考えて何か答えなければならない。
しかも、これまで自分がじっくり考えてきたことである場合はほとんどないので、その場で瞬時に考え瞬時に答えなければならない。
頭をフル回転させる必要があります。
いつどんな質問が来るか分からないので、緊張感も高まります。

② 思いがけない展開へ発展する可能性がある

講義者が質問する時には、講義者自身には大体の想定された答えが、当然のことながら頭の中にあるのです。
だから半分は、それに近い答えが返って来ることへの期待がある。
しかし実際には、期待通りの答えが返ってくることもあるし、期待を外した答えが返ってくることもある。

後者のような答えが返ってきた場合、講義者はちょっと困ることもありますが、その思いがけない答えによって、講義者自身も予想していなかった方向へ話が発展する可能性もあるのです。

話の大筋を外すわけにはいかないものの、想定外の着想が講義のさなかに生まれることもある。
これは講義者にとっても、実に魅力的なことです。


それにしても、私自身が講義をする立場なら質問することは面白いと感じるのに、いざ反対に聴講者として質問される側になると、戸惑うことが多い。

考えてみると、講義者は講義する内容を熟考して臨んでいます。
ところが聴講者はそうではない。
講義者が講義内容について100考えているとすれば、聴講者は1。

聴講者が質問を受けると、まず
「講義者はどんな答えを期待しているのだろう?」
と考える。

期待をあまり外してしまっては、講義に支障をきたす。
それで講義者にとってのベストと思える答えを咄嗟に見つけようとするが、思いつかないことも多い。
そうなると、自分が思うこと、その瞬間に思い浮かんだことを言うしかない。

私などは下手なプライドもあって、
「変な答えでは、思慮が浅いと思われるかも」
などという心配も小さくはない。

しかし、大抵の場合、一つの設問に対して正しい答えが一つしかないなどということは、多分ない。
原理の理解でも、話してみれば、そんな解釈もあるかというほど、十人十色、千差万別かも知れない。

そうだとしても、これが正しく、それ以外は間違っていると、簡単には言えない。
しかしそれでいい。
それが自然なことかも知れない。

ずれがあり、違いがあることによって、我々の理解は深まるというのが、本当のところだろうと思う。

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