みえるものは、みえないものにさわっている
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているのだろう。
(『一色一生』志村ふくみ著)
上の一節は志村の言葉ではなく、彼女がドイツの作家ノヴァーリスの詩を引いたものです。
作家自身がどういうイメージを頭の中に思い描いていたのかは判然としない。
私なりにいろいろ想像できて、
「面白いな」
と感じるのです。
例えば、みえるものは「私の体」。
みえないものは「私の心」。
すると、みえる体は、みえない心にさわっている。
「さわっている」の原語がどういうものか知りませんが、「さわっている」の語感は、やわらかい。
「つかむ」ような強い、意志的なものではなく、そっと触(ふ)れるような、触れることでお互いの間に何か目に見えないものがすっと流れるような感じがあります。
だからこれは、一方的にさわっているというより、お互いにさわっているとも思える。
体が心にさわるとともに、心も体にさわる。
あるいは、目にみえる人が、目にみえない神にさわっている。
同時に、みえない神も、みえる人にさわっている。
そしてお互いの間に何かとても微妙で快いものが流れる。
相対基準とか授受作用というと、とても固い感じがするが、さわり合う関係というのはやさしい感じがする。
この2か月余り腰の痛みが続いて、なかなか回復せず、昨夜はきりきりと痛みが強くなったので心配になり、今日知り合いの整体師に施術をしてもらいました。
行くとまず彼は、
「これまでにメスを入れたとか、強く打ったとか、ありますか」
と聞くので、
「メスはほとんどない。一度だけ、眉間を切って縫ってもらった。あとは中学生の時に野球をしていて人のバットが私の頭をかなりひどく打ったことがあります」
「頭のどこですか」
と聞かれるが、はっきりと覚えていない。
後頭部だったか、額のほうだったか。
それでも
「分かりました」
と言って、私の体にさわり始める。
頭にもさわってみて、
「バットが当たったのは、この後頭部ですね」
と言う。
「そこが原因で、左顎の噛み合わせが悪くなっているようです」
「どうして分かりますか」
と尋ねると、
「後頭部と左顎にさわると、私の体から力が抜けるんです」
と言う。
「それはどういうことですか。所謂、気の流れみたいなものですか」
「どうかな。整体を始めたころにはよく分からなかったんですが、いつのころからか体で感じるようになったんです。今ではさわらなくても、見ただけで、『あっ、あの人はあそこが悪いな』ということが大体見当がつくんです」
彼の整体は、とてもやさしい。
ゴリゴリもしないし、ギリギリもしない。
文字通り、
「みえるものが、みえないものにさわっている」
という感じなのです。
1時間余り、1回の施術ですっかり痛みが消えたとはいかないまでも、ずいぶんすっきりしました。

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