言葉を待つ祈り
旧約聖書に多く登場する預言者という人々は、それが真正な預言者であれば、自分の考えを自分の言葉で語った人ではないでしょう。
神様から
「語れ」
と託された言葉を、時には命がけで、時には気が進まないながらも語ったのに違いない。
彼ら預言者が神様とやり取りをするとき、おそらくは彼らが神様に語る言葉よりも、神様が彼らに語る言葉がよほど多かったでしょう。
神様には、この世に向かって語りたいことが胸のうちに溢れている。
というのも、神様はこの世をとても愛し、とても深い関心を抱いておられるから。
我々が神様に対して抱く愛と関心とは桁外れに深く広いと思われます。
するとおそらく、彼らの祈りは「語りかける祈り」や「願う祈り」ではなく、「言葉を待つ祈り」だったはずです。
そして本来、祈りというのは「待つ祈り」あるいは「聴く祈り」ではなかったかと思うのです。
旧約の預言者たちに限らず、古代の聖人たち、例えば孔子、老子、釈迦牟尼、イエス・キリストなどと言った人たちは、自分の考えを自分の言葉で語ったのだろうか。
そうではなさそうに思えます。
こういう人たちには、
「自分の思想」
という考えはない。
英語では、儒教を「Confucianism」、道教を「Taoism」などと訳しますが、いずれも今日的な意味での「ism(主義)」ではない。
彼らが語ったのは、誰か(それを天とか道とか異なる言い方をするにせよ)が彼らに託した言葉だった。
このような脈絡で考えるとき、今日この世に真正の預言者はいるのだろうか。
あるいはそこまで高次元の話でなくても、我々個々人も、単に自分の考えではなく、より貴い誰かから託された言葉を語ることはできるだろうか。
今回久しぶりで清平の修錬会に参加して、祈ってみても、あの世の霊人たちの声を聴くことができない。
役事が終わって人が去った聖殿に残り、
「あなたたちもここに一緒にいましたか?」
と尋ねても、答える声は聞こえない。
ところが、その時に何かの毛のような羽のような白いものが、目の前をさっとかすめて飛んでいくのです。
「もしかして、やっぱりおられましたか?」
そのように確認してみながら、
「天の声はどのように私に聞こえるのか」
と改めて考えました。
言葉を操るのは第一に神様、第二に天使、そして第三に人間、と思ってきました。
それ以外の万物は言葉を話さないはずだ。
ところが、万物も語りかけてくる(ように思える)ことがある。
聖殿で私の目の前を掠めて飛んだ白いものも、何かを語ったようにも思える。
「そうです。私たちも一緒にいたんですよ」
とでも囁いたような。
あるいは、先日の記事で書いたように、紅葉の山々を眺めていると、ふいに、
「個性」
という言葉が聞こえてくる(様な気がした)。
もちろんこれは、白いものや紅葉の木々が語ったとは(厳密には)言えない。
語ったように思うのは私のほうで、しかもその内容を「言葉」として解釈するのも私なのです。
しかしどうも、我ならぬ誰かの声を聴くという方法は、あるようです。
それが「聴く祈り」です。
神様の声も天使の声も霊人の声も万物の声も、耳を澄ませ、結局は私の中で私の言葉に変換する内部装置を通して聴くのではないかと思われます。

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