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私は断固、黄色になる

kitasendo
20181201 

久しぶりに高速を走ると、パノラマのように紅葉の山々が広がる。
その彩りの妙は圧巻と言うしかない。

運転しながらざっと眺めると、色の変わらぬ緑の部分がおよそ半分。
あとの半分が、黄色、橙、赤のように、この季節ならではの色合いに染まっている。
道路に近いところでは、黄土色を水で薄めたような色のススキが繁っているところもある。

そういう自然のキャンバスを眺めながら、
「個性」
という声が聞こえてくるような気がします。

山の木々は、それぞれ種類によって個性を持っている。
一年中変わらぬ緑を保つ常緑樹は、頑固に自分固有の色を保守しているように見える。

「私は、緑だ。この色の変わらないのが、私の個性だ」
とでも言っているようです。

その反対に、この季節になると徐々に色を変える木々もある。
しかもその色の変え方は、種類によって違う。

あるものは薄めの黄色にとどまり、あるものは思い切った濃い黄色になる。
別のものは暖かい橙色に染まる。

そして、全体の中で数こそ多くないが、真っ赤に染まる低木がある。
この赤はあまりに濃いので、全体の中では小さいが、アクセントのようにとても目立つ存在です。

この真っ赤な低木は、自分の個性をどのように考えているのだろう。

「僕の個性は、濃い赤だ。あんまり濃すぎると、全体の中で目立ちすぎるので、少し薄くなってもいいかもしれない」

おそらく、そんなふうには考えないだろうが、もし考えたとしても、その考え通りに薄くなることはできない。
赤い低木は、この季節に真っ赤になるのが定まった個性なので、それで目立ちすぎようとどうなろうと、その個性のままに生きるしかない。

それぞれの木々は、自分の個性を決して控えめに表そうとはしないように見えます。
隣の木が変わらぬ緑であったとしても、そんなことは構ったことではない。

「この季節になれば、私は断固として黄色になる」

そんなふうに遠慮なしです。
それでいて、彼らが全体として集まると、結局うまい具合に調和し、目を見張る彩りを作り出すのです。

我々人間はどうだろう、と考えてみる。
私にも神様からもらった定まった個性があるでしょう。

「あんまり自分の個性をそのまま出せば、全体のバランスを崩すのではないか」
などと思慮して、赤い個性も少し薄めにしたりはしないだろうか。

しかし赤い個性は赤いからこそ価値があって尊ばれるのであって、それを自分なりに薄めたりして全体の役に立つだろうか。

それにしても、私の個性は常緑なのか、黄色なのか、あるいは深紅なのか。
それを知っていて、しかもそれを愛しているだろうか。

私の個性は、秋の紅葉を眺めると、その声が聞こえた気がしてこんな記事を書くような個性。
文芸では小林秀雄を愛し、音楽では中島みゆきとエド・シーランを好む。
そのような趣を好まざるを得ない個性を持った私自身を、私は好ましく思う。
好ましく思わざるを得ないでしょう。

神様は一つ一つの被造物を個性真理体として造ったというのですが、それらを神様は好まれるに違いない。
そして様々な個性が集まっても全体的に美しくなるように配慮して、やはり真っ赤な個性はやや少なめに造っておかれる。
しかし真っ赤であれ黄色であれ、それぞれの個性は遠慮することなく、存分に自己を主張しなければならないでしょう。

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