精誠の味と価値
ほとんどすべての存在、物事、出来事には、精誠がこもっている。
思い切って言えば、「ほとんど」など付けず「すべての」と言ってもいい。
まず、この世に存在している自然物には、一つの例外もなく、創造主神様の精誠がこもっている。
道端に何げなく咲いている一輪のタンポポには、博物館のガラスケースに入れて展示されている新羅時代の王冠にまさる価値がある。
これはお父様が体感しておられた価値観です。
原理講論には、
「創造本然の花の価値はいかにして決定されるか」
という説明があります。
神がその花を創造された目的と、その花の美を求める、人間の美に対する創造本然の追求欲が合致するとき、言い換えれば、神の創造理想に立脚した人間の美に対する追求欲が、その花からくる情的な刺激によって満たされ、人間が完全な喜びを感ずるとき、その創造本然の美が決定される。(創造原理 第4節)
難しそうな表現ですが、結局は花に隠れている神様の創造の精誠を人間が感じれば感じるほど、その花は美しくなり、慕わしくて仕方ないほどになる。
そんなふうに言ってもいいでしょう。
しかし、往々にして我々はその隠れた神様の精誠を感得しない。
表面的な姿かたちだけを見て、良いのか悪いのか、私が好きか嫌いかを判断する。
そうすると、どうなるのでしょうか。
精誠を正しくその如くに受け止めないと、私は精誠を尽くした方に負債を負うことになる。
そんなことはその場ではしかと感じられないとしても、おそらくはそれが静かに積もっていって、私の大きな負債になるのです。
これは、神様と人間との関係だけに限った話では、もちろんない。
誰かが作ったものを私が使う。
その作られたものには作った人の精誠が必ずこもっているので、その精誠に見合った使い方をしないなら、使う人は作った人にも、作られたものにも負債を負っている。
こんなふうに言えば、どんなものでも無闇に扱えないのです。
私が今この記事を書いているパソコンも、毎日手放せないスマホも、今夕スーパーで買って帰った食材も、無闇勝手には扱えないし、口に入れられない。
昨夜の祈祷会でちょっとしたゲームをしたのですが、聞いてみると、それを準備した人は昼間図書館にまで行ってゲームを探し、祈祷会までにゲームで使う道具を作った。
ゲームはわずか30分。
しかし準備する人は3時間も4時間も費やしたでしょう。
始まる時間に集まってゲームに参加するだけの人は、
「今日はどんなゲームをするのか? 楽しいのか、つまらないのか」
などと考えるだけですが、準備する人はそうではない。
「へまをせずに上手くいくだろうか? みんなは楽しんでくれるだろうか」
と気が気ではない。
準備する人は謂わば「主人」で、参加する人は良く言えば「お客」。
有体に言えば、「僕」と言ってもいい。
主人がどれほどの精誠をたててその場を準備したか、それをお客が分かってその場に入らないと、迂闊な態度では負債を負う羽目になる。
レストランで食事をするなら、料理長の精誠に客は通常お金を払って対応するのですが、ただで済ませれば罪を犯すのと同じことです。
我々が人生を生きていくというのは、この精誠を、自分が与えるのか、あるいは相手からもらうのか、そのどちらかの立場に立つことの繰り返しと言ってもよさそうです。
それをよく弁えて、我々は早く精誠の味と価値の分かる創造本然の人間にならないといけない。

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