fc2ブログ
line-height:1.2;

正しく考える人は自分の考えを言わない

kitasendo
20181121.jpg 

私たちが何かを考えるとき、言うまでもないことだが、正しく考えたいと思う。
そして正しく考えたと思うことを言葉や文章にまとめて、誰かに伝え、その人に納得してもらおうと思う。
自分が言うことは正しいことなのだから、相手は当然そう認めて、受け入れてくれるはずだ、いや受け入れなければならないと思う。

しかし本人がいくら正しいと考えても、その考えは、
「その人の意見」
と見做されるのが普通でしょう。

「それはあなたの意見でしょう。私はそうは考えない」
と反論されることはいくらでもある。
というか、世間はそういうやり取りであふれている。

一人の人が考えることがその人の意見だとすれば、意見は人の数ほどあり得ます。
そして私の意見と相手の意見が違えば、どちらが(より)正しいかを、どのように、誰が判断できるのか。

何を判断基準にするかは難しい問題です。

ところで、
私が考えることは、私の意見ではない
と考える人もいます。

例えば、池田晶子という哲学者は、
「自分の言葉、自分の考え」
というものをまったく信用していなかった。

それは自分が考えることに自信がなかったという意味ではなく、むしろ全く反対に、
「自分は自分なりの考えを言っているのではなく、普遍的な真理を言っている」
と考えていたのです。

「誰であっても、正しく、私心なく考えれば、必ずこのような考えになるしかない」
という自負を抱いていたのです。

まかり間違えば、天下の傲慢になりかねません。
しかし、池田のこのような信念はプラトンに基づいています。

プラトンは、
考えるとは、すべて想い出すことだ
と考えていた。

どこから想い出すのか。
人間が知るべきことはすべてその魂に宿っている。
より正確に言えば、魂の奥にある「イデア(真実在)」に存在している。
だから考えるとは、それを思い出す、想起することに過ぎないと考えるのです。

これはなかなか自信に満ちた考えですが、それでもやはり第三者から見れば、
「それはあなたの勝手な考えでしょう」
と言われても仕方ない。

そこで科学はもう少し違う所に「正しいこと」の根拠を探そうとします。

科学者は研究対象を虚心坦懐に解明するため、主観が入り込めない数字を駆使する。
数字による計算を積み重ね、あるいは実験を繰り返し、何度やっても同じ結果が出ることを確かめる。

それによって、
「このようにすれば、必ずこのようになる」
という命題を出す。

するとこの命題は、それを導き出した科学者個人の「考え」ではない。

「この命題には普遍性があると言っていいのではないか」
と主張できます。

このように見ると、哲学者でも科学者でも本当に真理を求めようとする人であればあるほど、自分の考えを言わない人になる。
もちろん何かを主張するのですが、それを「自分の考え、自分の意見」とは考えていないのです。

しかしこれはなかなか難しい問題です。
「普遍的真理」と「個人的意見」とを、どのように見分ければいいのか。

実際、哲学の世界にもさまざまな哲学がある。
真理を教えるという宗教の世界にもさまざまな宗教の教えがあって、対立し、戦争までする。
「原理」を持っていると考えているところでさえ、○○派△△派というものがいくつも生まれる。

「原理」というものがプラトンの言う「イデア」に存在するものだと考えたとしても、それを正しく想い出せるかどうか。
想い出したと思ったものも、それが本当に正しく想い出したものと、どのように確認できるのか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

【お勧め記事】
関連記事
スポンサーサイト



kitasendo
Admin:kitasendo