忍耐の「チャンス」をくださる
「私はこうなるはずではなかったのに、お前のせいでこうなった」と言って、自分の悲しみを第三者に転嫁させようとして、「私は肯定されるべきであり、正常だ」という気持ちを持ってはいけません。「私」を否定して、環境を肯定しなければなりません。
(「天聖経」8-1-5-19)
先日の記事で取り上げたこのみ言葉を、昨日の礼拝説教でも使いました。
「『私』を否定して、環境を肯定せよ」
とは、どういうことか。
聖モニカを例に挙げて具体的に考えてみようと思ったのです。
ここでの「私」は、生まれた時から神様を愛する、純粋な信仰を持ったモニカです。
「砂一粒にも神様の愛が宿っている」
と信じるような無垢な信仰者を、なぜ否定しなければいけないのか。
彼女の向かいには「環境」がある。
どんな環境か。
① 優しさのない姑
自分の息子がモニカにとってどんなにひどい(暴力的で浮気を繰り返す)夫であっても、「申し訳ないね」と言って慰めてくれるような姑ではない。
② 暴力的で浮気性の夫
結婚した時は年齢はモニカのほぼ倍。
その上、暴力をふるい(ドメスティック・バイオレンス)、浮気を繰り返す異教徒。
③ 10代から放蕩を始め、同棲して私生児を作り、20代を過ぎても30を過ぎても、一向に神に心を向けようとしない息子。
彼が後に著した『告白録』によれば、「殺人以外のすべての悪事に手を染めた」。
このような「環境」を肯定して、信仰者である「私」を否定せよとは、一体どういうことだろう。
モニカの信仰は揺るがなかった。
彼女の変わらない態度のゆえに、姑がまず惹きつけられ、初めて教会の門をくぐり、洗礼を受けた。
変わった母の姿、仲の良くなった嫁姑の姿を通して、最後には夫も洗礼を受けるようになった。
もっとも身近でもっとも難しそうに思えた2人を伝道したのです。
それでも、息子だけは手ごわかった。
30を過ぎても、母の願いは実現しそうに見えない。
しかし、転機が訪れます。
ミラノで司教のアンブロシウスに出会って、感化を受ける。
その上で、あの劇的な「取って読め」体験をする。
「聖アウグスチヌス」の誕生です。
モニカが直面したこのような環境は、どうも神様が意図的に与えた環境だったと思われます。
だから、その環境を否定したり回避したりするのではなく、その環境に反発する「私」を否定しなさい、というのが神様の願いだった。
「この環境は神様が私のために与えてくださったのだ」
と考えることが、モニカにとって「私の否定」でした。
そしてモニカはそのようにしたので、最終的には環境を消化した。
礼拝の数日前、夜の祈祷会で観た映画『エバン・オールマイティ』に登場した「神様」が印象深いみ言葉を語ってくれました。
「忍耐」をくださいと祈れば、神様は「忍耐」をくださるのか? それとも、忍耐の「チャンス」をくださるのか?
「家族の温かい絆」をくださいと祈れば、神様は「家族の温かい絆」をくださるのか? それとも、その絆を作る「チャンス」をくださるのか?
そのチャンスは、簡単なチャンスではない。
モニカも難しい姑を愛し、粗暴な夫を愛し、放蕩する息子を愛するチャンスをもらったのです。

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