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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

忍耐の「チャンス」をくださる

2018/11/19
原理を学ぶ 1
20181119

「私はこうなるはずではなかったのに、お前のせいでこうなった」と言って、自分の悲しみを第三者に転嫁させようとして、「私は肯定されるべきであり、正常だ」という気持ちを持ってはいけません。「私」を否定して、環境を肯定しなければなりません。
(「天聖経」8-1-5-19)

先日の記事で取り上げたこのみ言葉を、昨日の礼拝説教でも使いました。

「『私』を否定して、環境を肯定せよ」
とは、どういうことか。
聖モニカを例に挙げて具体的に考えてみようと思ったのです。

ここでの「私」は、生まれた時から神様を愛する、純粋な信仰を持ったモニカです。

「砂一粒にも神様の愛が宿っている」
と信じるような無垢な信仰者を、なぜ否定しなければいけないのか。

彼女の向かいには「環境」がある。
どんな環境か。

① 優しさのない姑
自分の息子がモニカにとってどんなにひどい(暴力的で浮気を繰り返す)夫であっても、「申し訳ないね」と言って慰めてくれるような姑ではない。

② 暴力的で浮気性の夫
結婚した時は年齢はモニカのほぼ倍。
その上、暴力をふるい(ドメスティック・バイオレンス)、浮気を繰り返す異教徒。

③ 10代から放蕩を始め、同棲して私生児を作り、20代を過ぎても30を過ぎても、一向に神に心を向けようとしない息子。
彼が後に著した『告白録』によれば、「殺人以外のすべての悪事に手を染めた」。

このような「環境」を肯定して、信仰者である「私」を否定せよとは、一体どういうことだろう。

モニカの信仰は揺るがなかった。
彼女の変わらない態度のゆえに、姑がまず惹きつけられ、初めて教会の門をくぐり、洗礼を受けた。
変わった母の姿、仲の良くなった嫁姑の姿を通して、最後には夫も洗礼を受けるようになった。

もっとも身近でもっとも難しそうに思えた2人を伝道したのです。

それでも、息子だけは手ごわかった。
30を過ぎても、母の願いは実現しそうに見えない。

しかし、転機が訪れます。
ミラノで司教のアンブロシウスに出会って、感化を受ける。
その上で、あの劇的な「取って読め」体験をする。

「聖アウグスチヌス」の誕生です。

モニカが直面したこのような環境は、どうも神様が意図的に与えた環境だったと思われます。
だから、その環境を否定したり回避したりするのではなく、その環境に反発する「私」を否定しなさい、というのが神様の願いだった。

「この環境は神様が私のために与えてくださったのだ」
と考えることが、モニカにとって「私の否定」でした。

そしてモニカはそのようにしたので、最終的には環境を消化した。

礼拝の数日前、夜の祈祷会で観た映画『エバン・オールマイティ』に登場した「神様」が印象深いみ言葉を語ってくれました。

「忍耐」をくださいと祈れば、神様は「忍耐」をくださるのか? それとも、忍耐の「チャンス」をくださるのか?
「家族の温かい絆」をくださいと祈れば、神様は「家族の温かい絆」をくださるのか? それとも、その絆を作る「チャンス」をくださるのか?

そのチャンスは、簡単なチャンスではない。
モニカも難しい姑を愛し、粗暴な夫を愛し、放蕩する息子を愛するチャンスをもらったのです。

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Comments 1

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はちみつ

聖モニカの記事をありがとうございます。

>環境を否定したり回避したりするのではなく、その環境に反発する「私」を否定しなさい

なるほど、神様がこのような環境を与えて下さった意味が理解できます。

以前「邪悪な要素を受け入れよ」というブログで
「あなたのそのままを何も裁かず、私の心の中に許容します」
という文言を書かれていらっしゃいました。

私がアベルから教わったのは「善悪分立」で、悪を愛してはいけないということでした(80年代半ばの話です)
ですので、統一教会に反対する牧師や弁護士はもちろん、性転換者に対してもサタン視していました。そう教えられてきました。

社会人になり、性転換者の多い地区で働く機会がありました。
彼らと接するうちに、彼らを愛してる(男女の愛では無く、同じ人間として)自分に気付きました。
どうしても彼らをサタン視出来なかったです。彼らも事情があり、手術に踏み切ったんだ。苦しかったんだなと思いました。

前置きが長くてすみません。
理不尽な人、悪をなす人が現れたら
『善悪分立でサタン視する』
ことはしなくて、大丈夫でしょうか?

2018/11/20 (Tue) 15:42