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耳を澄ませ、そこに一切がある

kitasendo
20181118 
Claude Monet Water Lilies, 1917

絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。
練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解することとは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍ら、こういう寡黙な認識を全く侮蔑している。そしてそれに気附いていない。
(『偶像崇拝』小林秀雄著)

これも『
小林秀雄の警告』(適菜収著)が引用してくれた一節です。

今目の前にある一幅の絵の良し悪しが解る解り方には、二通りある。
一つは、「理解して解る」という解り方。
もう一つは、「感じて解る」という解り方。

「理解して解る」というのは、対象を言葉にして認識しようとする。
「この絵は何主義に属する絵であり、どういう技法で描かれているか」
など、1枚の絵を分解していきます。

それに対して「感じて解る」というのは、言葉を使わず、対象を分解せず、全体を「感じ」ようとする。
それを小林は、「寡黙な認識」と呼ぶ。
言葉を使わないからです。

この解り方をするのは簡単ではない。
退屈に堪える練習をしないと、この認識を得ることはできない。
しかし大抵の人は、こういう退屈には堪えられないしその意義も分からないので、その練習をしようとはしない。

小林はこういう「寡黙な認識」を重んじる風潮が今の日本には見られない、これで文化国家と言えるのかと慨嘆します。
独り絵に限らない。
音楽であれ、文学であれ、料理であれ、歴史であれ、およそ「美」というものを内包するあらゆるものを「感じて解」ろうとしない。

この点を指して、適菜はやや比喩的な言い方で、
「作者が表現しようとするものに近付くためには、耳を澄ます以外にない。そこに一切がある
と言う。

「本当に解ろうとするなら頭を使うのではなく、耳を澄ませ」

このような洞察が気がかりでならないのは、私もなかなか耳を澄ませられない人間だからなのですが、特に、
「私はどのように原理を解ろうとしてきたか」
と自問せずにはおれないからです。

「理解して解ろうとしたのか、それとも感じて解ろうとしたのか」

理解して解る道は、分解します。
創造原理はこうで、堕落論はこうで、復帰原理はこうだ。
お父様はこう言っておられるが、お母様はこう言っておられる。

そのように分解して解ると、
「これは正しく、これはおかしい」
「私の原理理解から見ると、あなたの理解はちょっとおかしい」
というふうになることもあり得る。

言葉を通して解るので、言葉と言葉の戦いが起こる可能性があります。

それなら、「感じて解る」とはどういうことだろう。

「体験して解る、体恤する」
という考え方があります。

そういうことも含めながら、もう少し大きな解り方があるような気がするのです。

それがどういう解り方と言えばいいのか。
上手く言い表せないのですが、最近ある人から教えてもらったお父様のみ言葉で、とても気になるものがあるので、それを一部紹介して、次にもう少し考えるとっかかりにしようと思います。
これも感じて解らないと、ちょっと危険なみ言葉かも知れません。

もう、私たちが誰かの言葉を聞く時は過ぎ去りました。どんな真理よりも、千万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の声を聴き、聴いてもまた聴きたくて、その心を求めていくべきです。
そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。それが創造の内容です。
真理の言葉や誰かについて信仰する時代ではないのです。それらは自分の心の声を聴くための手段です。目的ではないのです。

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