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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「友だち」とはどんな人か

2018/11/17
読書三昧 0
20181117 

ソクラテスに聞いてみた』(藤田大雪著)は、ある青年(サトル)のfacebookにソクラテスを名乗る人物から「友だち申請」が届くところから始まる。
設定はきわめて今風で軽そうに見えるが、内容は結構しっかりしています。

物事、とくに我々の生活において基本的な物事をどう定義するか。
これは重要なことだと思います。
きちんと、本質を突いた定義ができなければ、その価値も曖昧になるし、それを追求していく気力も上がらないから。

一つの例を挙げましょう。
本書で最初に定義しようと思案する物事は、
「友だち」
です。

「友だち」とはどんな人か。

ソクラテスから問われて、サトルは最初、
「一緒にいて、楽しい人」
と、ごく普通に答える。

するとソクラテスは、
「それなら、一緒にいて楽しくない人は友だちではない、ということになるね」
と首をかしげる。

「今苦しんだり悩んでいる人と一緒にいても楽しくはないだろうから、そういう人は友だちになれない。昔は楽しかったが、今は楽しくなくなれば、その人ももはや友だちではない」

「それなら、これはどうです?」
とサトル。
「友だちとは、私を精神的に成長させる人である。友だちとはお互いにとって有益な人」

「なるほど。そうすると、君をよく教えてくれた学校の先生、さらにはその先生に勧められて読んだ良い本の著者、そういう人も君の友だち、ということになるね」(ソクラテス)

「そうじゃない。友だちとはあくまでも身近にいる人です」(サトル)

ここまでのやりとりをまとめると、友だちとは、
「一緒にいて楽しく、精神的に成長させてくれる人」
ということになります。

しかしこのように定義すると、
「一緒にいて楽しくなく、精神的に成長させてくれない人は友だちではない」
ということになります。

そこでソクラテスは次のように問題点を指摘する。

「これまでの君の定義は、友だちそのものの定義ではなく、友だちがまさに友だちであることに由来して出て来るいくつかの付随的要素に過ぎないのではないかな」

「じゃあ、友だちであることの本質とはいったい何ですか?」

「これは私の夢に出てきた人が教えてくれたことだが、『友だちとは愛されるものの一種だ』というんだ」
と一つの定義を提案した上で、
「愛されるものには、3つの種類がある」

3つとはすなわち、

① 利益になるもの
② 快いもの
③ 善いもの

①の利益になるものは、それ自体としては愛されず、それがもたらす他のもののゆえに愛し求められるもの。
例えば、苦い薬、辛い手術など。

②の快いものは、それが与えてくれる心地よい快楽のゆえに愛し求められるもの。
例えば、快適なベッド、遊び道具など。

③の善いものとは、それ自体のゆえに持ちたいと望むもの。
例えば、幸福、健康、優れた人間性など。

①と②は分かりやすいが、人が③を求めるのはなぜか。

「それは幸福や健康、優れた人間性などは、他の何かのために愛し求められるものではなく、それ自体として望ましいからだ」
とソクラテス。

とすれば、「友だち」とはこの3つのうちのどれに該当するか。
③の善いものになるだろうが、①や②の要素もある。
しかし本当に善いものは、①や②のゆえに愛するというより、それが善いものであるというそれ自体のゆえに愛する。

大体こんな対話が続きます。

もとより、ソクラテスの対話には哲学独特の難しい言葉は出てこない。
しかし、普通に人が考えている思考の層の1段2段深い層を掘り起こそうとするので、掘り起こされてみると今までの層が表面的なものだったことに気づく。

実は普段、我々は考えているようで、意外と自分で考えていないようです。

ソクラテスはそこを突くのですが、その時に論理だけでなく、要所で、
「夢で教えられたんだが」
というような閃きが入り込んでいることは注目に値します。

原理講論にも重要と思える定義がいくつもあります。

「神様とは誰か」
「創造目的とは何か」
「罪とは何か」
「信仰基台、実体基台とは何か」
「氏族メシヤとは何か」

それを我々は繰り返し読んで確認しているようでありながら、本当によく分かっているのかな。
自分の頭で考えて、しっかり理解しているのかな。

これらのことが本当にしっかり分からなければ、私自身の生活はとても曖昧になります。

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