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良心を持った鳥

kitasendo
20181113 

その人の考えや言うことがよく分かるので、それに共感し、その人を好ましく思う、ということでは必ずしもない。
私にとっては、小林秀雄という人がまさにそういう人です。

今回、小林自身の著書ではないが彼についての本を読んで、
「どうして私がこれほど小林に惹かれるのか」
という理由が、少しだけ分かったような気がします。

小林秀雄の警告』(適菜収著)

これは私にとって、相当面白い本です。
滅多にないことですが、最後の一文まで細大漏らさず読み切りました。

面白い理由の第一は、小林秀雄の著作の引用が本書の多分半分以上を占めていること。
もちろん適菜の主張したい筋書きに合わせて引用されるわけですが、引用の仕方が相当うまい。

「なるほど、そういうふうに読めるか」
と、しきりに感心させられるのです。

引用は小林の他、小林が扱った一流人士たち、モーツアルト、ゴッホ、本居宣長、ゲーテなどの言辞がうまい具合に配置されている。
言ってみれば、適菜の文章が本書の地の文で、小林その他の人士の文章が台詞という感じ。
正直に言って地の文自体は感嘆するほど秀逸とは言えないが、超一流の台詞があまりに雄弁なので、地の文もその恩恵を十分に受けている。

本書を読んでもなお、小林がよく分かったとは言えない。
それでも少し分かったように思えることの一つをまず書いてみます。

小林は、その人となりは「顔」にすべて現れると考えた。
だから、その人の言葉よりも「顔」を重視した。

例えば、こんな一文があります。

福田(恆存)という人は痩せた、鳥みたいな人でね、いい人相をしている。良心を持った鳥の様な感じだ」(『伝統と反逆』)

これは人の褒め方としては、どうでしょう。
変な褒め方ではあるが、とても好意的に心から褒めているのは間違いない。

「良心を持った鳥」
とは、あまりにも言い得て妙です。

小林がなぜ言葉よりも「顔」を重視したか。
言葉は嘘をつくことができるが、「顔」は嘘をつけないからです。
言葉は必ずしも内実を正確に表現しないが、「顔」は必ず内実に正直なのです。

ところで、これは「顔」だけの問題ではない。

「物事の内実は、必ずその姿に現れる」
と小林は信じている。

内実は目に見えないが、姿は見える。
だから、見える姿を通して内実を正確に知ることができるというのが、小林の信念です。

ところが、ここには一つ深刻な問題がある。
姿を通して内実を正確に知るには、姿を正確に見抜く「眼」が必要です。
その「眼」がなければ、いくら偉そうに言ったところで、的外れな内実しか分からないことになります。

適菜は小林について、
「小林は目がよく見えていた。見え過ぎるほど見えていた」
と言う。

小林が「近代」というものに一貫して懐疑的だったのは、近代は「顔」よりも言葉を重視するからだと、適菜は言う。
近代は、物事の「姿、かたち」をじっくり見ないで、言葉をもって抽象化、概念化しようとする。

「歴史とは、こういう原則で展開する」
というふうに概念化されたものを尊ぶが、小林はそれに異を唱える。

史観さえあれば、本物の歴史は要らないと言った様なことになるのである」(『歴史と文学』)

史観は本物の歴史ではない。
本物の歴史は、過去のようだが人の姿をして今も生きていると言うのです。

このような流れで小林を探求していくと、
「なぜ小林は、染井吉野は本物の桜ではないと言ったのか」
「なぜ小林は、本居宣長の『姿は似せがたく、意は似せ易し』という論を真っ当だと見做すのか」
などといったことが、よりすっきり得心がいくようになるのです。

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