私の生活が最も雄弁に原理を語る
原理がいかに素晴らしいかを説得し納得させるには、どんな講義をしたらいいのでしょうか。
まず、分析的に講義してみる。
キリスト教の要点は、これこれである。
仏教の要点はこれこれであり、儒教はこれこれ、神道はこれこれ……。
しかし、いずれも足りない点、不明瞭な点がある。
そういう点を見事に説明できるのが原理である。
他の宗教と比較して、原理の優位性を理論的に明らかにするのです。
この方法は悪くないように見えます。
宗教に限らない。
共産主義でも、この方法は使えます。
物質から精神が出てくるという考えはどのようにおかしいか。
労働価値説はどこが現実と合わないか。
あるいは、暴力革命の必要性を説いたマルクスの心の中には神への憎しみ恨みがあったと分析する。
神の愛を説きながらそれを実践できなかったキリスト教にもその責任があるので、真の神主義(原理)によってそれを克服しなければならない……。
原理を解明された文鮮明先生の素晴らしさを伝えるという方法もあります。
15歳でイエス様と出会い、特別な使命を託された。
韓国はもとより、北朝鮮でも米国でも謂われない罪で投獄されたが、それらすべてを克服して、一貫、世界平和実現に人生を捧げてこられた。
この方の愛がどれだけ深いか、洞察力がいかに鋭いか、その証は枚挙にいとまがない。
このような講義を、これまで私も随分聞いてきました。
また私自身でも、これに類する講義を随分してきました。
しかし、最近はどうも、
「このような講義でいいのだろうか?」
と懐疑的、というか、無力感を感じることがあるのです。
講義の内容そのものが無力というより、
「その講義をしている講義者自身がその内容でどのように変わったのか」
という問いを突き付けられるのです。
その問いは、誰か私の講義を受けた人が突き付けるのではなく、講義する私自身が自分に突き付けざるを得ないのです。
そしてその問いにきちんと答えられないと、講義の内容はたちまちにしてその力を消失する。
そういう気がします。
原理は私が言葉で語るのではなく、私の姿が最も雄弁に原理を語る。
他の宗教を分析する私は、その宗教を信じて実践する人よりどこがどう優れた人なのか。
共産主義を批判する私は、それを信じて実践する人よりもっと真剣に社会改革をしようとする人なのか。
お父様の素晴らしさを力説する私は、その方の人格に万分の一でも近づいている人なのか。
そのように考えると、もうほとんど一言も原理らしきものを語ることができなくなるのです。
お父様だったか李耀翰先生だったか分明ではありませんが、
「家に帰ったら原理を極力語るな」
と聞いたことがあります。
家の中にあるべきものは言葉の原理ではなく、生活の原理である。
そういう意味ではなかろうかと理解しています。
原理が本当に正しいのか、どれだけ素晴らしいのか、それを証明するのは「生活の姿」だ、ということです。
原理の言葉は目に見えないが、生活の姿は目に見える。
見えるものが見えないものを証明するのです。
私は毎日、どんな言葉を話しているか。
人を批判していないか。
弁解をしていないか。
私は毎日、どんな心情で人に対しているか。
父母の心情があるか。
私は毎日、どんなふうに食べているか。
どんなふうに着ているか。
どんなふうに家を整えているか。
どんなふうに眠っているか。
これもまたはっきりとした出典は示せませんが、
「人生は詰まるところ、寝て、起きて、食べて、出す。出て、帰る。それだけだ」
というようなお父様のみ言葉があったような気がします。
「これが究極の原理だ」
と考えると、何だか一番心にすとんと落ちます。
それでも何か話せと言われれば、
「感謝すること、愛すること。この2つさえ分かれば、原理のすべてが分かります」
と言っておけばどうか。
これはお母様からいただいた知恵です。

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