環境肯定して、自己否定しなさい
昔、牧会者になりたての頃、毎週の礼拝説教を準備するのに、
「毎回、新しいことを話さなければならない」
と思って、随分苦労した。
同じことを話したら、
「教会長はまた先週と同じ話をしている」
と思われるのではないかと気がかりだったし、
「食口には毎週新しい何かを与えて上げなくてはいけない」
と思い込んでいたのです。
ところが説教を続けているうちに、ある事に気がついた。
「人は一度聞いたことを、1週間後には大抵忘れている」
ということです。
だから、人は一度だけ聞いた話では生活にほとんど応用できない。
それで後には、
「説教者はむしろ、毎週同じ話を繰り返ししなければならない」
と考えるようになりました。
キリスト教も2000年の歴史の中で、数限りない説教を多くの説教者がしてきたとしても、基本となる筋立てはおそらく五指に足りないでしょう。
枝葉のバリエーションはいくらでも増やせますが、一番のメインは必ず「イエス様の十字架」です。
考えてみると、イエス様ご自身が残されたみ言葉も本当にわずかだし、もっと絞れば、イエス様ご自身が、
「み言葉をまとめれば、たった2つだ」
と仰っている。
つまり、
「心を尽くして、あなたの主、神を愛せ」
「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛せ」
の2つです。
神のみ言葉は膨大なように見えて、実は大抵2つくらいにまで集約できる。
イエス様もそうだし、文鮮明先生も、
「原理を教えるとき、2つだけしっかりと教えなさい。一つは、神様がどんな方か、もう一つが、霊界はどんなところか。この2つさえきちんと分かれば、人は信仰の道を正しく行く」
と言われました。
更に、膨大に残された文先生のみ言葉を前にして、お母様(韓総裁)は、それを再び2つに集約されました。
一つは、感謝すること、もう一つは愛すること。
「この2つさえ分かれば、原理のすべてが分かる」
とさえ言われたのです。
このようなことをあれこれ総合して愚考すれば、説教者は敢えて新しい話を考案しようと苦心惨憺する必要はない。
それで最近、私が説教を担当するときは、大抵同じ話をする。
言いたいことはいつも同じで、ただ切り口が少しずつ違うだけです。
このブログももう間もなく記事数が2000に達しようとしていますが、その内の多分100以上は同じことを書いています。
今日もその同じことを記して終えようと思います。
今日の講義でも引用した天聖経の一節です。
「私はこうなるはずではなかったのに、お前のせいでこうなった」と言って、自分の悲しみを第三者に転嫁させようとして、「私は肯定されるべきであり、正常だ」という気持ちを持ってはいけません。「私」を否定して、環境を肯定しなければなりません。
(「天聖経」8-1-5-19)
昔は、
「自己否定」
を強調されたものです。
自分はそもそも自分なりに考え、自分なりに思う者なのに、それを否定せよと言われると、とても苦しい。
自己否定は私の怨讐だとも思われました。
しかし実のところ、本当に必要なのは、
「環境を肯定すること」
なのです。
環境を肯定しようとすれば、自動的に自分を否定するようになる。
お父様の教えの真意はそこにあるだろうと思われます。
「環境を肯定する」
とは、どういうことか。
「私が遭遇するあらゆる環境(あらゆる出来事、あらゆる人)は、例外なく私に必要で、私のために神様が与えてくださったものである」
ということを受け入れることです。
そのように受け入れようとすれば、必然的にその環境に反発する私を否定するしかないのです。
環境肯定が主要テーマで、自己否定はその結果に過ぎない。
お父様の教えは昔から実にシンプルだったのです。

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