神は死んでいないか、どうか
映画「God's not Dead」を観る。
「神は死んでゐない」
と、どうして言へるか。
米国ではかういふキリスト教宣教のテイストをもつ映画がちょくちょく作られるやうです。
(例えば「1畳半のクローゼット祈祷室」)
出来栄えはそれほど悪くはないが、やはりその宣教色がちよつと鼻につく。
無神論者であつた大学教授が最後に車にはねられ、息を引き取る直前、牧師の説得で、
「私はイエスを信じる」
と言ひ残す。
物語の軸はその教授が持つてゐる授業に参加した新入生の一人が、最初の授業でのやり取りから、
「神は存在する」
といふプレゼンの機会をもらひ、20分のプレゼンを3回することを通して、教授に変化が現れるといふ流れ。
プレゼンをした新入学生は純粋なクリスチャンで、友達には、
「僕にとつてイエス様は今も生きてゐる。その教へを裏切ることは考へられない」
と話すやうな男性です。
20分を3回で、わずか1時間。その時間内で、無神論の教授と大方が無神論的な学生たちを、有神論的に説得することがどこまでできるか。
学識ではとても敵はない教授を相手に、若輩クリスチャンがどんなプレゼンをするか。私としては、ここが一番興味をそそられたところです。
その学生も頭は悪くない。教授が好きなホーキンスだとかチョムスキーなどの無神論的言辞を引用しながらも、ビッグバン宇宙論をどう有神論的に解釈するかなどといつた論理を展開する。
教授としては、そんな付け焼刃的な勉強で組み立てたプレゼンなど、いくらでも突つ込みどころはあると踏んでゐたが、学生のほとばしる熱心さに、思ひもかけない力を感じたりもする。
一方で、教授は自分のクラスの学生であつた女性と結婚してゐるのですが、彼女はクリスチャン。2人の関係は信仰の違ひからぎくしやくし始める。
まあそんな流れがあつて、最後には教授に変化が訪れるといふ「信仰勝利」のストーリーです。
青年が行つたトータル1時間のプレゼンの結果、80名あまりの学生たちのほとんどが、
「God is not dead」
と言ひながら立ち上がる光景も感動的に描かれました。
確かに青年がかなりうまい具合にプレゼンをしたとは認めませう。しかし、現実はそれほど簡単なものではないだらうと思ふ。
論理を駆使して神の存在を証明しようとする試みは今に始まつたことではない。歴史をさかのぼれば、中世のトマス・アキナスも苦心したし、近代の始まりにはデカルトやアンセルムスなども試みてゐます。
しかしどうもさういふ、論理的には反駁が難しさうな説得は、改宗者を作るにおいて、思つたほどには効果がないやうに思ふのです。
人間は
「理性的な存在だ」
とも言ふが、本質はそうではない。
人が何かを信じるかどうかは、詰まるところ、
「それを信じたいかどうか」
といふ、非常に非理性的なところにある。
これは例へば数学でも、
「論理的には間違ひないと納得できるのに、情的にはどうしても受け入れられない結論がある」
といふことが証明されてゐるので、間違ひあるまいと思ふ。
次の記事で、人はどのやうにしてそれまでとは違ふ考へを受け入れるかといふ一例を示してみませう。

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