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無暗に原理を学ぶと、道を誤る

kitasendo
20181022 

昔書いた自分の記事を徒然に読み返していると、
統一教会にはちょっと訪ねて行きにくい
という記事が出てきたのですが、自分でも書いたことを忘れていた。

ある方のところに聖母マリア様が霊的に訪ねてこられて、
「カソリック教会はいいけれど、統一教会はちょっと訪ねて行きにくい」
と告白されたことがあるというのです。

なぜそうかと言うと、カソリックでは聖母マリア様は救い主、神の独り子であるイエス様の聖母であるので、イエス様と同じくらいに敬愛する。
イエス様が本質的に神様なら、その母親は神様のお母さんです。
どれだけ尊ばれるでしょうか。

そのような所であれば、マリア様も行きやすい。
これは人の心として分かります。

一方、家庭連合では
「イエス・キリストの母マリアは、最終的に責任を果たせず、失敗した」
と教える(ように思える)。

「あの方は重要な使命を持っていたのに、それを悟れずに失敗し、イエス様が十字架にかかる一つに原因を作ったんだって」
と互いに囁き合うところには、いくら心の寛容な方であっても、自ら進んで行きたくはならない。
これも人の心として、よく分かります。

原理が解明したことは間違ってはいないとしても、結果的には敵を作ってしまっている。
「敵」は言い過ぎかも知れないが、少なくとも貴重な方との共働関係を難しくしていることは確かなようです。

これと同じことは、他にも多い。

アダム・エバを初めとして、カイン、アベル、ノア、ハム、アブラハムからイスラエル民族、キリスト教へと続く摂理的中心人物たちのほとんどは、その責任を完全には果たせなかったという原理的な立場から、講義の度に、
「この人の失敗で、神様の摂理は延長された」
と繰り返され、受講者はそれを頭の中に刷り込んでいくのです。

このようなことは、原理自体が悪いわけではないが、結果的には「原理バイアス」とでも呼ぶべきものが我々の意識に形成されてしまっているような気がします。

聖母マリア様の告白から類推すれば、これらすべての歴史的人物たちも家庭連合には訪ねて来にくいだろう。
我々が原理バイアスによって壁を作れば作るほど、その方たちとの断絶は深くなる。

これはどうも、原理を受け止める我々の人格の問題かも知れないという気がする。
例えば、お父様のみ言葉にこのようなものがあります。

困難な場で排斥した弟子たちですが、イエス様は復活後にまずガリラヤに訪ねて行かれ、自分の責任を遂行し始めました。
このように、死の峠を越えるとしても、変わらない弟子として立ててくださったイエス・キリストの人格こそ、今日の私たちが手本とすべき人格です。
(1956.5.16)

弟子たちが摂理的な責任を果たせなかったとしても、イエス様は彼らを責める心が先行するのではなく、まず自分の責任を遂行しようとする。
それによって空いた穴を埋め、次の摂理へとつなぐことに専念する。
そういう人格があってこそ、我々も原理の真意を正しく理解できるということでしょう。

人格基準がそのようになれば、モーセ路程におけるイスラエル民族についてもこういう見方が出てくるようになります。

それでも(モーセに繰り返し不平不満をつぶやいても)、イスラエル民族は偉かったのです。40年間忍耐したのです。
行けと言えば行きました。選んだみ旨を前にして、イスラエル民族はモーセに従って行きました。
(1960.11.27)

人格の基準が低いと、我々はすぐに人を批判する。
自分は正しく、相手が間違っていると考えやすい。
そのような人格で原理を学ぶと、復帰歴史の中には批判すべき人ばかりがいるような感覚になるのです。

自分の人格をそのままにして無暗に原理を学んでは、道を誤る。
そういう恐れもあります。

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