それが私の羊かも知れない
アブラハムの生涯を観れば、ある人物を神様がどのようにして中心人物の位置に立て、さらにどのようにして過去の罪を蕩減復帰させようとなさるのかということが、とても象徴的に示されています。
アブラハムと彼の妻が中心人物として立つためにまず通過させられた道は、エデンの園の蕩減復帰です。
飢饉が起こった時、夫婦は食料を求めてエジプトへ下る。
そこで妻のサラが王に奪われ、その妾になるしかないという状況から、信仰を持って王の手から解放される。
この時、アブラハムはアダムの立場、サラはエバ、そして王は天使長の立場です。
このような条件を立てて初めて、アブラハムに神様が臨み、三種の供え物をせよと命じられる。
ハト、羊、牝牛の三種の動物を裂いて捧げよという命令です。
それぞれの動物には意味があり、ハトはアダム家庭、羊はノア家庭、そして牝牛はアブラハム家庭を表示している。
この三種の動物を一緒に捧げることで、それまでの2000年の摂理を一気に蕩減復帰しようとする神様の計画でした。
ところで、アブラハム自身はおそらく、ただ神様を敬い信じていただけであって、自分が復帰摂理の中心人物に選ばれようとしているなどとは知る由もなかったでしょう。
まして、自分が遭遇する様々な困難な事態が、神様のどういう摂理的根拠で起こっているのかも、当然分からない。
しかしその彼の人生行路が聖書に記録され、さらにそれが原理的に「意味」を解明されてみると、彼を通して役事された神様のやり方が、現在の私たちにも通じる普遍的なものとして理解されるようになるのです。
まず、中心人物として選ばれるためには、そのための資格条件が必要になる。
アブラハムの場合には、妻を奪われそうになるきわどい道を通過することで、文字通りアダム・エバの蕩減復帰が必要だったけれども、私たちにおいては立場によって内容が違ってくるでしょう。
内容は人それぞれであっても、必ず先祖の罪を蕩減するような象徴的蕩減条件を立てさせられる。
その条件が立って初めて、本格的な摂理が始まります。
アブラハムの例から考えると、数十代(あるいは数百代)に及ぶ先祖の中でも、特に重要な節目となる先祖の罪を象徴的に蕩減する条件を提示される。
アダム家庭の条件はハトであり、ノア家庭の条件が羊であったことを考えると、より遠い先祖の罪はより小さな条件で蕩減し、近い先祖であるほど大きな条件が要求されるようにも思われます。
そして自分自身が担当する条件が最も大きい(牝牛)。
しかし大きいと言っても、基本的には減償法による条件です。
私たちにはどのような条件が提示されるでしょうか。
アブラハムも神様が指示するものに従うしかなかったように、私たちも自分では分かりません。
天使が現れて教えてくれないとすれば、私に必要な条件をどのように知ることができるのでしょうか。
今日私が遭遇する出来事が私に必要な条件だと考えるしかないし、おそらくそれはいつも正しいと思います。
私が今日、ある辛い出来事に遭遇したなら、その辛さを象徴献祭として捧げる。
それが私のハトかも知れない。
私が生理的に嫌悪するような人と一緒に仕事をしなければならないなら、その嫌悪を象徴献祭として捧げる。
それが私の羊かも知れない。
ここで「象徴献祭として捧げる」というのは、辛さや嫌悪などの「痛み」を「甘受」し、「感謝」するということです。
その痛みは、今の私を通して先祖の罪と私自身の罪をまとめて蕩減させようとする神様の減償法的恩恵であると考えられるからです。
アブラハムの三種の供え物は1回きりの摂理でした。
それに失敗すると、子孫が大きな蕩減を背負いました。
私たちの道にも、そのような1回きりの大きな摂理がどこかで訪れるかも知れない。
しかしそうであったとしても、それは人生の中で1回あるかどうか。
人生の99.9%は普通の日常生活です。
その人生の大半を占める日常生活の中で、どのように不断に象徴献祭を捧げ続けるか。
それは極めて重要なことではないかと思うのです。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
実質的に堕落性を脱ぐ(その1) 2022/07/09
-
何のために原理を学ぶのか 2012/03/02
-
グノーシス主義とユダ福音書 2011/06/28
-
愛らしい愛 2016/01/04
-
スポンサーサイト