すべては神様が私に与えてくださったものである
前回の記事「『取って読め体験』はいかにして起こったか」の続きです。
母モニカは熱心だが純朴な信仰のクリスチャン。
息子のアウグスチヌスは母の信仰を疎ましく思って逃げていたのに、結局は母と同じ信仰に導かれる。
この母と息子のストーリーはかなり劇的なものではありますが、神様にとってはそれ以上の価値がある。
神様には復帰のための原理はある。
目的地もはっきりしている。
しかし、神様には実体がなく、人間に見せてやれるものがない。
「このようにすれば、このような結果が出る」
という目に見える実例は、神様ではなく人間が作ってみるしかないのです。
神様を嫌い、あるいは関心を持たず、反対の方向に進み続け、肉欲に溺れて人生の袋小路に入って行くような息子を、母はどのようにしたら導くことができるか。
その実例を、モニカが作って見せたのです。
この実例は、神様にとって極めて貴重です。
誰でもがこのようにはできないと思われる、素晴らしい、一つの典型的な実例が現れた。
それを神様が使わないはずがありません。
「こういう実例があるだろう。このようにすれば、誰でも私が願う結果を作り出すことができる。これを参考にして、あなたもやってみなさい」
これが、神様の声ならぬ声ではないか。
だから、今の時代に聖モニカの信仰の人生を多くの人々に紹介するのは、モニカ自身のためではない。
モニカを使って歴史の中に刻んでおいた神様の願いの実体を紹介することです。
そのような観点からモニカを紹介すれば、モニカにとってもこれ以上嬉しく誇らしいことはないでしょう。
モニカが霊界から講師にお礼を伝えてきたというのも、そういう気持ちだったのに違いない。
さてここで、なぜモニカが神様の願いの実体になれたのかについて、講師の話を参考に考えてみます。
モニカ以外にも、熱心に祈る信仰者は多いでしょう。
その中でも彼女が際立った願いの実体になった内幕が、何かあるはずです。
彼女は飽くなき信仰で祈り続けたのですが、その信仰の根底において、
「自分の息子は神様が授けてくださった子」
という一点を微塵も疑わなかった。
息子は、彼が親の言うことをよく聞く孝行息子であっても、反対に不出来なやくざ者のように思えても、神様が私に与えてくださった一つの貴重な生命であるという点において、絶対的な価値をもっている。
これは頭で考えた理屈でも、単なる観点でもなく、疑いようもなくそのように感じる感性によるものなので、現実の状況を超える力があるのです。
アウグスチヌスはモニカにとって、本質的には自分が生んだ自分の息子ではない。
神様が自分に下さった生命なので、これまではどんなにひどい状況であったとしても、必ず神様のもとへお返しすることができる。
その信仰が揺るがないのです。
おそらく、そういう信仰なら神様が用いることができる。
神様がどのように働かれているか、それは人間の目には見えませんが、ある種の信仰は必ず神様を動かす。
その信仰をどのように言えばいいのでしょうか。
「すべては神様が私に与えてくださったものである」
良い息子も、悪い(と思える)息子も。
良い出来事も、悪い(と思える)出来事も。
すべては神様が、何らかの意味を持って私に賦与してくださった。
それを信じ切るのが私の責任です。
もちろん、その上で、拙いながらも自分にできることは何でもやってみる。
その責任を果たすことができれば、95%は神様が役事される。
普遍的に見れば、モニカの実例はそのことを神様が示唆するための歴史的な事例だったと思われます。

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