私自身が創造したものを所有する喜びの味
原理講論の「創造原理」第5節に、
ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。
とあり、「堕落論」第6節には、
神は創造主であられるがゆえに、人間を主管し得る資格をもっておられるように、人間も万物を主管することのできる資格をもつためには、神の創造性をもたなければならないのである。
とあります。
これを見ると、
「何かを主管できる真の主管権は、それを作った者にある」
というのが神様の思考方式であるように思えます。
神様は非常に長い時間をかけてこの世界を創造された。
この世界に「美」があるとして、神様の無限投入の結晶としてのその美に対して、それを創造した神様が感じる喜びと、それを創造していない人間が感じる喜びとの間には、違いがあるだろうか。
多分、同じではないでしょう。
秋になれば山々は美しい紅葉に彩られる。
その山の中を車で走っても、山道を歩いても、その美しさに陶酔する。
しかしそれは私のものではない。
私はそれを所有していない。
それを創造したのは私ではないから。
私が死んで霊界の天国に行ったとする。
そこは(おそらく)秋の紅葉より数千倍も美しい。
「こんなに美しいところに来れて、私は何と恵まれているのか」
と感激するだろう。
しかしその天国の環境も、私のものではない。
私は天国の創造主でもないから。
それなら、天国に行った私がそこで所有しているものが何かあるのか。
天国の環境は、厳密に言えば、私のものではない。
しかし、私がそこに行ったということからすれば、その環境と関係を結べる何らかの内容が私の中にあるとは言えるでしょう。
その美しい環境の中で私が真に所有しているものは、私自身の内面だけです。
その内面だけは、私が創造したものです。
天国の環境にふさわしい自分自身を創造したので、私はそこにいる。
そのような私を、私はいつ創造したのかというと、この世に(肉身をもって)生きている間です。
私は原理軌道に沿って、蘇生期、長生期、完成期を通過して成熟し、神様の間接主管圏を超えて直接主管圏に入る。
神様を中心に三対象目的を完成して、家庭的四位基台を作る。
原則はそうですが、実際の人生行路は人によって様々です。
私はどのように人を愛し、万物を愛し、神様を愛したか。
それによって、私の心霊をどのように美しく成熟させたか。
それが私の地上人生の「実績」となります。
霊界に行った後は、その実績を食べながら生きる。
その実績の味は飽きることがないので、何度でも繰り返し食べることができ、食べる度に新しい喜びを感じることができるのです。
その味だけが、私自身が創造したものを所有する喜びの味です。
その時、天国の環境の美しさは、私の内面の喜びを反映したものであるに過ぎない。

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