日曜日の審判台
昔、牧会者だった頃、毎週の礼拝説教が、かなり苦痛だった。
稀にはインスピレーションがあって、それを種に温めて説教にまとめることもあったが、大抵は種を探すのに苦労し、貧しい種を育てるのに1週間ずっと苦悶するのです。
真のお父様は、
「説教の内容を心配しない。礼拝に来るメンバーの霊的欲求を満たしてあげられるように深く祈る」
と言われましたが、私はそうもいかない。
内容がまとまらないまま迎える日曜日の朝は地獄のようで、できるなら壇上には立たず、遁走したいという気持ちに襲われる。
そういう時の壇上は、文字通り「審判台」です。
今は教育部長の立場で、かつてのような苦痛からは随分解放されたものの、時折めぐってくる説教者としての日曜日は、やはり「Blue Sunday」になることが多い。
そういう面で今昔の違いはあまりない反面、説教のまとめ方についてはいくらかの変化があります。
まず、牧会者時代にはなかった「パワーポイント」を使う。
これの利点は、説教者側、参加者側の双方にあります。
参加者側にとっては、視覚情報が内容理解の助けになる。
言葉だけの説教には、うまくすれば説教者と参加者とのリアルタイムの躍動的なやり取りが生まれやすい。
それは体験的にもよく分かります。
しかしその反面、説教内容を音声情報だけでよくキャッチするには相当な集中力が必要だし、その情報はすぐにフェードアウトしやすい。
その点パワーポイントなら、文字情報だけでなく、画像も使えるし、映像を挿入することもできる。
的確な素材を使えば、参加者に与えるインパクトはかなり強い。
人間の認識は7、8割視覚情報に負うので、このメリットは相当に大きいと感じます。
一方、説教者にとっても説教の作り方に変化が生まれます。
私の作り方を具体的に振り返ってみると、まず伝えたいテーマを種として、それをどんな構成で1枚のページにまとめるかを考える。
最初は、とにかく思いつくままに言葉をかき出し、効果的と思える画像を探す。
次に、そのテーマを説明するためのページを作る。
それもまずは思いつくままに2ページ、3ページと作っていって、それをサムネイルで眺めながら、論理的な流れを熟考する。
うまく話が流れるように、ある時には作ったページの順番を並べ替えたりしてみる。
それでもまだうまく話が流れそうに思えないと、新しいページを作って既存のページの間に挿入してみる。
そのように、自分の頭の中に浮かぶアイデアを目の前に可視化しながら推敲していけるところが、パワーポイントの強みです。
そういう作業をしていって、金曜日中には8割がた作るというのが、私が自分なりに設定している目安です。
それができると、「あと2割」。
気分がかなり楽になる。
土曜日にそれをもう一度開いて、吟味し、調整する。
土曜日の夕方までに完成できれば、その夜はやや安らかな気持ちで床に就くことができます。
ところが、土曜日の夜になってもなかなか最終的に完成しないこともある。
直しても直しても、納得できない。
そういう時は、昔の牧会者時代を思い出します。
それにしても、こういう説教でいいのかなという思いもなくはない。
説教の真の主人は説教者ではなく、神様である。
そう考えれば、その説教に乗って神様が本当に語られるだろうか。
生命が伝わるだろうか。

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