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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

祭物の根底歴史

2018/09/02
原理を学ぶ 0
20180902

本日の礼拝で聞いた講義のテーマは、
「地域化」
ということで、それを主として原理講義に基づいて説明されたところが、論点が明確で良かった。

原理講義は、「アダム家庭」「ヤコブ路程」「モーセ路程」の3つ。
それに加えて、4つめが「天一国建国のモデルとしてのアメリカ建国」。

講義の最初には、原理講論の一文が引用されます。

このような新しい時代の摂理は、古時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる。
したがって、この摂理は古い時代の因習に陥っている人々には、なかなか納得ができないのである。
(「人類歴史の終末論」第5節)

ここで言う「古い時代の因習に陥っている人々」とは、誰のことか。
原理講論が書かれた1960年代においては、再臨摂理に反対する「キリスト教」だと見做されていたが、時代とともに摂理が進展した今日においては、「家庭連合」それ自体の可能性もある、と講師は指摘するのです。

これは、前から私も考えてきたことです。
人は一度強く信じたものを変えることに、強く抵抗する。
それは独りキリスト教に限ったことではないのです。

講師はまた、次のような真のお父様の説教を紹介します。

祭物は、自分の代わりに血を流したというわけです。何のために死ぬのかというと、カインを救ってやるために、カインのために死ぬわけです。
それが祭物の歴史です。根底歴史ですよ。だから、アベルがカインのために死んで血を流したというのは、最高の愛なのです。
(「我々の今後の活動」1978年9月23日)

我々の多くは、原理のみ言葉に出会って献身的に歩んできた。
自分の身を誰に捧げたと思ってきたかというと、
「神様のため」
「真の父母のため」

しかし、それはある意味で間違っていた。
自分自身よりも「価値の高い」と思う存在のために自分の身を捧げると思ってきたのに、お父様は、自分自身よりも「一見価値の低い」と感じられる存在のために血を流すことが祭物として最高の愛であると言われる。

この観点は、古い時代に明らかでなかった新しい時代の観点というわけではありません。
昔からお父様ははっきりと教えておられる。
ただ、我々がそのことに気がついていなかった。
あるいは、気がついていた人もいるが、全体的なコンセンサス(常識)になっていなかった。

この観点が、今日の摂理的な要請(「地域化」)につながっていきます。

アダム家庭のアベルとカイン。
ヤコブ路程のヤコブとエサウ。
モーセ路程のモーセとイスラエル民族。

従来から原理講義において、これらはいずれも外せない箇所です。
しかし一体何のために講義し、何のために受講するのか。
よく思いあぐねてきました。

もちろん基本原理は、信仰基台と実体基台を復帰してメシヤを迎えるための摂理。
そして、それが失敗すれば、延長される。
その摂理の中には、今日の我々に提示される教訓もあります。

しかし、今日、神の祝福を受けたヤコブとは誰なのか。
そのヤコブは何をすべきか。

その観点で一貫して講義すれば、
「なるほど、それを分かるために復帰原理は解明されたのか」
と合点がいく。

本日の講義は、それをよく提示してみせる講義でした。

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