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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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安息圏はあなたのただ中にある

20180819 

「神の国は見られるかたちで来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなた方のただ中にあるのだ」(ルカ福音書17:21)

ここでイエス様が言っておられる「神の国」を「安息圏」という言葉に置き換えてみる。

「安息圏」は私の外(ここ、あそこ)にはない。
「安息圏」は私の内にある。
ということになります。

ユダヤ教の律法の中で極めて重要な「安息日」。
これは聖書の創世記に、神様が6日間で天地を創造し、7日目に安息されたという言い伝えがあるのに由来するものです。

聖書の日本語訳では、
「休まれた」
となっています。

原語では「全休止」を意味する「シャバット」。

「休んだ」
と言えば、
「6日間全力を出し切ったから、精根尽き果てて休息なさったのか」
と思う。

実際、ユダヤ教の安息日は一切の労働をしてはならないとされます。
安息日に緊急の患者を搬送したら、救急車が厳格な律法主義者の投石を受けたというような話もあるほどです。

安息日はキリスト教に受け継がれて「聖日」あるいは「主日」となり、その伝統は家庭連合でも8日ごとにめぐってくる「安侍日(安息侍義日)」として定着しつつあります。

しかし改めて考えてみると、神様は7日目にどんな状態で安息されたのか。
疲労困憊しておられたのか、あるいは大業を完了された安堵と満足感に浸りながら、たゆたっておられたのか。
神様における「安息」とは一体どのようなものだったのか、これまであまり深く考えたことがないのです。

イエス様の言葉を
「安息圏は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」
と言い換えてみると、我々は7日に1回休めばいいというような話ではないようです。

7日間の始めから終わりまで、途切れることなく安息圏の中に生きなければならない。
7日間の神様の内的な状態を私自身の中に再現しなければならない。
そのように思われてきます。

私の中に作るべき「安息圏」。
それは一切の堕落性がなく、創造の本性だけがある内的な心の空間。
分裂や闘争が私の中にあってはならないということになります。

私もこれまで原理講義を繰り返しながら、
「堕落性とは何だろう?」
と、ずっと考えてきました。

そして今の時点でたどり着いた答えを一言で要約すると、
「問題の原因を自分の内部に求めず、外部に探そうとする性質」
というふうに表現できます。

その性質は、堕落直後のアダムとエバの言動に、端的に現れています。

神様から、
「お前は食べるなと命じておいた木から取って食べたのか」
と、理由ではなく事実を問われたのに、アダムは、
「私と一緒にしてくださったあの女が取ってくれたので食べました」
と、思わず弁解をしてしまった。

過ちの原因は私(アダム)の中ではなく、外部(エバ)にある。
そしてエバも同様です。
過ちの原因は私(エバ)の中ではなく、外部(蛇)にある、と答えたのです。

アダムはエバを責め、エバは蛇を責めたけれども、詰まるところは、そのようなエバを創り、そのような蛇を創った神様を責めている。
そうして、2人は神様から遠ざかったのです。

この性質が連綿として受け継がれ、今日の私の中にも頑として存在します。
このような性質は、神様に背を向けた上で、外側に「加害者」を作り、自分は「被害者」になる。
「被害者」は「加害者」を責め、両者は必ず対立葛藤する。

これが私たちの中から「安息圏」が消失したカラクリではないかと考えます。

そう考えると、「安息圏」には堕落性があってはならず、従って「被害者」と「加害者」があってはならない。

「問題の原因はすべて私の内にある」
と考える以外に、「安息圏」を取り戻す方法はありません。

安侍日はこのような「安息圏」を取り戻そうと内的に努力する日でなくてはいけないと思われます。

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