ほしいから盗っていったのだ
costaさんのブログで
「夫婦喧嘩は子供の心を裂く」
という記事を読んで、いろいろ考えさせられました。
父母の一挙手一投足の背後にある心を子女はとても敏感に感じ取っている。
だから、子女の前で夫婦喧嘩をするのが良くないのはもちろん、子女のいないところで喧嘩をしても良くない。
喧嘩をする夫婦の関係そのものを改善する努力が必要だ。
これは家庭連合の基本的な家庭指導なのですが、ここにある重要なポイントは、父母は自分の生活の姿を通して何を子女に伝えるかということだと気づきました。
costaさんが紹介してくれたのは夫婦喧嘩ではなく、車のバッテリーが盗まれたときの振る舞いです。
保険がやっと整って、初めて娘さんが車を運転できるという矢先、何者かがバッテリーを盗んでいった。
バッテリーだけでなくケーブルまで切っていったので、直すのも大変だし、娘さんの落胆とショックも大きかった。
その日、costaさんが家に帰って娘さんに言ったのは、次の一言だったというのです。
「残念だね。せっかく初めて車を乗れると思ったのに、こんなことになってしまって」
一体どんな奴が、こともあろうに大切なバッテリーを盗んでいったのか。
まったく不埒な奴だ、許し難い。
新しいバッテリーを買って直すのに、どれくらいの時間とお金がかかると思っているのか。
そんなことは、一切言わなかった。
言うべきことではないと考えていたからです。
costaさんは内心、こんなことを考えていた。
「ほしい人に与えたのだから何の問題もないのではないか。ほしかったから盗っていったのだ。それで良いではないか。ほしいものを与えた。後は自分で直せばよいことだ」
しかし、奥さんは心配する。
「このまま車を放置したら、エンジンまで盗られるのではないか」
costaさんは、エンジンを取り外すことの難しさを知っているので、それはあり得ないと思う。
その一方で、こんなことまで考える。
「車ごと盗まれるかもしれない。しかし、それはそれでいいではないか。『私のもの』という観念が、盗られることの不安を生む。むしろ、盗っていった人のために祈ることも必要だろう」
この記事を読んで、私は
「そこまで考えるか!」
と思いながら、イエス様のこんな教えを思い出しました。
「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着までも与えなさい」(マタイ福音書5:40)
costaさんは、バッテリー(下着)を盗った者には、車(上着)までも与えて構わないと考えた。
もちろん、こういう考えの一部始終を娘さんに話したのではない。
しかし、「残念だったね」という一言を伝えただけで、聖書の重要な教えを娘さんに伝えたように思われるのです。
聖書の教えも真の父母の教えも、言葉で教えて伝わるのではない。
その教えを学んだ父母が、自分の生活態度を通して実体的に見せるとき、子女に本当に伝わる。
そうは言っても、
「ほしいから盗っていったのだ」
とは、私には思えそうにない。
「自分のもの」
という執着も抜けきれないし、盗っていった人のために祈るというのも、相当にハードルが高い。
しかしだからこそ、costaさん同様、我々はもっと熱心に
「真の私」
を求めていかねばならないと思うのです。

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