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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

錐の一言

2018/08/10
世の中を看る 1
20180810

世の中に悲しみと苦痛がたくさんあるとしても、真の私を探せない悲しみと苦痛ほど、ひどい苦痛と悲しみはありません。
それでは、創造主である神様は、今まで誰を求め続けていらっしゃいますか。皆さん自体、すなわち「私」を訪ねてきていらっしゃいます。ですから、真の私が完全に決定されなければなりません。
(『天聖経』8-1-3-22)

昨今、メディアが伝えるニュースを見ていると、
「我々はどうしてこれほど、人の非を探り出し追及するのが好きなのだろう」
と思う。

どこかの大学、どこかの協会のトップや幹部が不正をした、パワハラをしたと見做されるや否や、雲集した取材陣がマイクを突き付けて、
「いつ、会長を辞任しますか? 会長職だけですか? 理事も辞めますか?」
と詰問し続ける。

最初は強気で、
「私は辞めない。私を支持してくれる方々は多いはずだ」
と言っていた人も、周囲からリコールの声が拡大すると、とても耐えきれなくなって、遂には辞任を表明する。

すると、追及者たちは鬼の首を取ったような達成感を抱いて、しばらく静かになる。
そして、次の首が出てくるのを待ち受ける。

事実は小説よりも奇なり。
メディアが連日「これでもか」というように伝える権力者たちの没落の姿を、視聴者たる私はワクワクしながら見続ける。
半ば中毒のように。
自分はメディアとともに、正義の側に立っているかのように。

確かに、不正はよくない。
パワハラもよくない。

しかしその一つ一つを潰していったその先に、我々は何を求めているのだろうか。
不正もパワハラもない、正義に満ちた、平和な世の中を実現しようとしているのだろうか。

私は聖書の伝える有名な一節をいつも思い浮かべるのです。(ヨハネ福音書8章)

姦淫の現場を押さえられた女が広場に引きずり出され、公開処刑に処されようとする。
引きずり出したのは、ユダヤ教の律法に通じた律法学者やパリサイ派の人たち。
彼らは罪の女を使ってイエス様を姦計にかけようと目論んでいるのです。

「モーセは、姦淫の罪は石打ちの刑に相当すると言っています。教師イエスよ、あなたはどう考えますか?」
と彼らは問う。

しかしイエス様は答えない。
そして、詰問者たちがじれてきたところで、錐の一言を発するのです。

あなた方の中で、自分には罪がないと思う者がいれば、この女に石を投げなさい

すると、詰問者たちの中の年かさの者から順に、一人二人とその場を去って行った。
彼らの内心を推量するのは簡単ではありませんが、ともかくそのようにして、イエス様はその場を収拾されたのです。

この場面で、盛んに詰問した律法学者たちは、いったいどんな立場で詰問したのか。
それが私の疑問です。

女が姦淫の罪を犯したからと言って、彼らが直接に何か被害を被るわけではない。
被害者でもない、謂わば第三者がなぜこうも、罪を犯した人を引っ張り出して責め立てるのか。

「神の律法に最も精通している我々は、律法の守護者である。我々が神の側、正義の立場に立って律法の違反者を取り立てなければ、誰が社会の正義を守るのか」

そういう崇高な(と彼ら自身が考えている)目的観念をもって罪を暴き出そうとしていたのでしょうか。

しかしイエス様は別の機会に、こんな言葉も残しておられます。

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」(マタイ福音書7:3)

あるいは、

誰でも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである

イエス様は一貫して、
「罪は自分の外に見るな。自分の内部に目を向けよ」
と教えておられるように思われます。

しかし、我々の目は概して外側にしか向かない。

今の世にイエス様がおられ、連日のメディア報道を見ておられたなら、何と言われるのでしょうか。
2000年前のように長い沈黙を守られるかもしれない。
しかしその沈黙の後にあの錐の一言を発せられたとしても、「真の私」でなければ、人はそれを真に受けるでしょうか。

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はちみつ

みことば

「あなた方の中で、自分には罪がないと思う者がいれば、この女に石を投げなさい」

鋭い言葉です。
自分が罪深い人間だと知らされ、他人を批判する資格など無いのだと気付かされます。

堕落した人間からは、このような言葉は出てこないでしょう。そこでやはりイエス様は、天から来れれた方だとはっきりわかります。
イエス様の言葉は「燃える火」です。

2018/08/11 (Sat) 13:41