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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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憤懣やるかたない人を尊敬する

20180708

本日担当した礼拝の説教タイトルは、
「信仰の相続」
サブタイトルは、ちょっと不穏かなとは思いながら、
「憤懣やるかたない人を尊敬する」
としました。

題材はノア家庭の所謂「裸の摂理」です。

この部分、単なる物語としてみれば、
「昔は真面目で信仰的だった父親が、今は老いぼれてぶどう酒を飲んで酔いつぶれている。それを見つけた息子たちが慌てて父のみっともなさを隠そうとした」
という話。

どうしてこんなエピソードを聖書はわざわざ記録しておいたのかと訝るような話です。
しかしここには重要な神様の摂理があったと、原理は解明する。
しかも、ある意味では、120年もかけて遂行した巨大な箱舟の建造や、その後起こった人類を滅ぼすような大洪水に優るとも劣らない重要な摂理だと言うのです。

時間にすれば、1日にも満たない、多分1時間もあれば一部始終が過ぎてしまうような出来事を通して、神様はノアから次男ハムへ信仰の相続をさせようと考えておられた。
ところが、神様の意図はあまりにも高すぎたように思えます。

ノアの裸を息子たちが何ら恥ずかしがりもしない姿を通して、昔純潔なアダムとエバの清らかだった裸体の記憶を取り戻そうと考えられた。
しかしこんな意図をハムがキャッチできるでしょうか。

神様にとっては「千年は1日の如し」でしょうが、1600年も前の出来事を蒸し返してハムに蕩減復帰してくれと言っても、彼にそんなことが分かるはずはない。

彼が、
「裸の父は恥ずかしい。こんな父は尊敬できない」
と思っても、仕方ない。
彼には大いに同情の余地があると思えます。

ところで、今回説教を準備しながら、一つ思い当たったことがあります。

ぶどう園を作ったので、ぶどう酒を作り、それを飲んで酔っ払うことになったのですが、
「ノアの家族は、そもそもなぜぶどう園を作ったのだろう」
という疑問が湧いたのです。

新約聖書を読むと、イエス様はぶどう園を用いた例え話をしておられます。(例えば、ルカ福音書20:9-16)
この中で、ぶどう園は「神様の復帰摂理」あるいは「天国理想」と言ってもいいでしょう。

この例え話、もしもイエス様がノアの物語を念頭に置いて語られたのだとすれば、ノアの裸の摂理はもう少し深く理解することができます。

ぶどう園が天国を象徴するなら、ノアが自分で作ったぶどう園のぶどう酒で酔って寝ている姿は、まさに天国人なのです。
だから、彼は裸で何の問題もない。
神様はこの状況を「復帰された天国」と見ておられた。

しかし、ハムはその天国の外にいたので、神様のように感じることはできず、自分なりの堕落性による思いで判断するしかなかったのです。

ともかく、神様は1600年も前のことでも、まるで今の問題のように扱われる。
それゆえ、我々人間はとても神様の意図を正しく洞察することはできない。

つまり、我々には神様の御心を計り知ることはできないので、ハムも
「父の裸を私に見せなければならない何らかの事情が神様にあるのだろう」
と考えるしかないのです。

その上でハムは、
「神の人として父を尊敬しよう」
と自戒できればよかった。

説教のまとめとして、最後に李耀翰牧師の説教の一節を引用しました。

家庭連合の食口たちは欠点を見ても父を尊敬し、裸体を見ても神に仕える心を持ったならば、父より出来の良い息子になることができたのです。その瞬間に信仰の相続がなされるのです。
憤懣やるかたない人を尊敬し、互いに愛し合う風土が生じるようになれば、サタンはいなくなるのです。
(『聖書の中の心情圏』李耀翰)

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