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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

人生のヒント

2018/07/04
原理を学ぶ 0
20180704 

約1年ぶりの清平。
早朝、福岡空港までの道も前が見えないほどの土砂降りが1時間以上続く大荒れ天気だったが、韓国も雨。
7月というのに、半袖では肌寒いほどでした。

修錬苑の中には「情心苑」というかなり大きな祈祷室があり、正面には真の父母様の肖像画が掛けられている。
その左右に、洪順愛大母様、孝進様、興進様の一段小さな肖像画が並んでいる。

今回情心苑に入ると、私の目は左側の孝進様に惹きつけられました。
孝進様とはいくつか個人的な思い出があるのです。

1980年代半ば、孝進様を中心とする大会を米国で開くという時、日本のCARPメンバー約100人が渡米し、私もその中の一人でした。

渡米早々テキサスに下り、40日余り大会のための資金作りにいそしんだ後、ニューヨークに上がって大会に臨んだ。
その大会の時だったか、レセプションで孝進様が一人づつに握手をしてくださった。
その時の手の感触が今でも残っているのです。

その後、私はニューヨーク北部にある統一神学校に学ぶようになり、最後の半年余り、私の妻が来客専用の台所を手伝ったことがある。
その間に何度か孝進様が来られ、ある時、その接待担当の夫ということで私が紹介され、挨拶する機会があったのです。

私を一目見て、
「あなたは韓国人か?」
と尋ねられたので、
「日本人です」
と答えると、
「日本人に見えない」
とおっしゃった。

本当にわずかな体験であるのに、私はいまだに特別な思いを孝進様に感じる。
情心苑の肖像画をじっと見るだけで、懐かしさと親しみの情が湧いてくる。

孝進様は2008年、45歳で聖和されたが、肖像画の年齢は20代の終わりか30代の初めに見える。
若いが、静かで落ち着いた様子にとても惹かれる。

ところが、なぜかその時私に一つのおかしな自問が生じたのです。

「孝進様に今直接会えたとしたら、その懐かしさを伝え、弟が兄に話すように、心おきなく接することができるだろうか?」

その自問に対して、
「私には、それができないだろう」
という気がしたのです。

「なぜだろう?」
という自問がさらに生じます。

赤坂御苑で開かれる園遊会に招かれるのは特別な功績を立てた人であり、しかもそこでは失礼のない正装で参加し、自分の番が来れば一言二言を交わして終わる。
そういう場で心置きなく接することはできない。
それと同じ関係だろうか。

いや、そうではない。
私自身にある種の「膜」があるのではないか。
これは私が考えたのか、もしかして孝進様が無言で教えてくださったのか分からないが、その「膜」が私と孝進様との間を隔てているのです。

孝進様は真の家庭の長男であられる。
そういう思いが「膜」を作って、自ら孝進様を遠ざけているのではないか。

そんなふうに考えていると、
「『膜』というのは、自分の頭が作り出すものだ」
という思いが湧きます。

「孝進様はこういう方で、私はこういう人間である。だから心置きなく接することは難しい」
と考えるのは、頭です。

頭で考えて勝手に「膜」を作り、人間関係を疎遠にしている。
だからこれは、孝進様とだけの関係ではない。

どんな人に対しても、
「この人はこんな人で … 」
と考えて、人間関係に人工的な距離を作ってしまう。

今この時、清平には千人以上の修錬生が集まっているだろうが、その中の誰と「膜」を隔てない交わりをしようとしているか。
ほぼすべての人が、自分の周りでざわめいている他人に過ぎないではないか。

そんなふうに、祈るでもなく考えていると、
「これは、私がここに来て、孝進様を懐かしく思って、久しぶりに面と向かったので、一つ貴重な人生のヒントを与えて下さったのか」
と、そんな気がしました。

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