神様主導の打開策
先日「堕落性を脱ぐ生活」というタイトルの講義録を3回にわたって紹介したところ、特に「甘受」ということについていくつかのコメントをいただきました。
「甘受」と言えば、今自分が遭遇している状況を、それがどんなものであれ「甘んじて受ける」ということから、とても消極的な感じがします。
世の中はすべて「甘受」でうまくいくほど、甘いものではない。
こちらが甘受しようとすればするほど、相手はますます図に乗って「恩を仇で返される」恐れがある。
弱くて、愚かな生き方ではないか。
あるいは、「甘受」と言っても、受け入れられる限界があると思われる。
どんな苦しい状況でも甘受しようとして耐え切れず、自分が壊れてしまっては、元も子もないではないか。
そういう危惧はもっともなことだと、私も思います。
それで以前「甘受」についての講義をする時、
「甘受とは、与えられた苦痛をすべて肯定的に受け止め、耐え忍ぶことなのか?」
という設問を立ててみたことがあります。
その時に私が考えた内容を箇条書きにしてみると、大体こんなことです。
① 私が体験する苦痛の原因は、自分の内部にあると考える。
② そのことを一旦受け入れ、そういう苦痛を体験せざるを得ない原因(罪)を自分が抱えているという事実を知らせてもらったことを(神様に)感謝する。(これが「甘受」)
③ ここであるレベルの蕩減条件が立つと、それを土台として神様が「次にどうすべきか」という道を示してくださる。
④ そのインスピレーションに従って行動する。
⑤ すると状況は新しく展開し、そこで体験する苦痛があれば、それをまた「甘受」する。
これを一つのサイクルとします。
このサイクルは、私が遭遇している問題の打開法案なのです。
私たちは何らかの困難な状況に立ち至れば、過去の体験や知識や力量から自分なりの打開策を模索するものです。
この模索のプロセスに「甘受」というプロセスを挟み込む意味は何でしょうか。
私が今なぜこのような問題に遭遇しているのか。
その本当の理由は、私には分かりません。
私の落ち度があったのか、あるいは遠い先祖に原因があるのか。
それを限られた知恵でいくら考えても、本当の理由は分からない、というか、思いついたものが本当の理由かどうか、確かめるすべはありません。
それが正確に分かっているのは、おそらく神様だけですから、その知恵は神様に委ねます。
神様の知恵を受け取るために「魂の空間」を作る必要があります。
この「魂の空間」には、「自分なり」(私心)があってはだめなので、「甘受」を通して私心を取り払う。
ですから、「甘受」というのは決して消極的で受け身的な態度ではないと思います。
本当の打開策を見出して行動し、それによってより正しく対処しようとする、神様主導の積極策なのです。
私の体験からすると、神様の知恵はかなり思いがけない内容であることが多く、自分の頭で考えて出てくる知恵とは発想の方向が相当違います。
それで、その知恵によって起こす行動も、「自分なり」のものとは自ずと違ってくるのです。
コメントの中で私のアドバイスを求めて下さった方もありますが、神様から直接知恵をもらうために、上の5つのプロセスをご自分で試していただくのがもっと良いと思います。
かなり過去の体験についてであっても、その体験を今なお忘れることができないという「現在の苦痛」として対処すればいいのです。

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