私はあなた、あなたは私
前回の記事「世界で起きる … 」の続きです。
いただいたコメントに、
「我々が第三者の立場で祈るしかないですか」
とあります。
しかし、SITHの見地からすれば、私が見聞きするどんな出来事に対しても、私は第三者ではないということになります。
これはSITHにおいてなかなか理解(実感)しにくい点なのですが、私が何かを見聞きしたということは、その出来事は私の外でではなく、私の中で起こっている。
例えば、今回私が
「5歳の女の子が亡くなった」
というニュースをテレビなりネットなりで知った。
するとその出来事は、私が知った瞬間、日本のどこか遠いところで起こった出来事ではなく、私の中で起こったことになるのです。
その出来事を知って、私の中にさまざまな思いや感情が生じる。
「可哀そうだ」
「ひどい親だ」
「児童相談所は何をしていたんだ」
このような思いのほとんどは、第三者としての思いです。
どこかにひどい親がいる。
その親に反抗できない幼い子どもがいて、上手く対処できなかった(ように見える)児童相談所がある。
それをメディアが取材して報じ、私がそれを見る。
一見すると、私はその出来事から最も遠いところにいて、観察しているだけのようにも感じられます。
しかし、SITHではそのように考えないのです。
その出来事が起こったのも、それが私の人生の中に入り込んできたのも、私が持っている記憶のゆえである。
そして、その出来事に対して怒りが生じたり、悲しみや同情が生じたりするのも、私の記憶に起因している。
そのあまりに非道な出来事を私が体験(見聞き)したのは、そのような体験をせざるを得ないような非道な記憶が私にあることを知らせるためである。
それで、私のすべきことは、
「私の中のどの記憶がこの出来事を起こしたのか。どの記憶のゆえに私にこういう感情が生じるのか」
と自問すること。
もっとも、いくら自問しても、そんなことは分かりません。
だから、ただ、
「その記憶を浄化(あるいは消去)してください」
と祈る。
「なんだ、それは? あまりにナイーブ(うぶ)すぎる」
と思われる方も多いでしょう。
確かに、SITHの理屈を了解しない限り、実にへんてこな話です。
それなのに、なぜ私はこれに一目を置くのか。
原理には、一人一人の人間を「形象的個性真理体」と見做す考え方があります。
誰でも唯一無二の個性を持った、他と置き換えることのできない価値がある。
それは素晴らしい人間観だと思うのですが、その一方で全体目的と個体目的の二重目的を持った「連体」という考え方も原理にはあります。
「森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである」
(創造原理 第3節)
これからすると、私も、5歳の女の子も、その父母も、一つの広大な有機体の一部なのです。
しかし、私たちは普段なかなかそんなふうに思えない。
「あなたはあなた、私は私」
と思っています。
個性真理体だとは思えても、連体だとは思えない。
だから、同じ有機体の一部だと思っていない他の人を割合簡単に批判できる。
それに対してSITHは、「記憶」というものを通してではあるものの、私が体験する(見聞きする)すべての出来事に私の責任があると考える。
その責任は、地球の裏側でもすぐさま飛んで行って解決するというような超犠牲的なものではありません。
しかしその問題の原因は自分の中にあると考えて、それを取り除くという責任を自分に課するのです。
ですから、基本的に人を批判することはできなくなります。
SITHを知ってみると、「祈り」についても考えざるを得ません。
自分以外の誰かについて祈ろうとするとき、どのように、どんな立場から祈ればいいのでしょうか。
誰について祈るとしても、本当は自分が第三者の立場で祈ることはできません。
誰かがある問題を抱えて悩んでいる。
それについて祈ってあげようとすれば、その問題はその人が抱えている問題のように見えながら、実は、私自身の中にその原因があるのです。
しかし我々はそのようには考えず、
「その人の問題を解決できるようにしてください」
と神様に祈る。
どうも私はこれまで、祈りの根本を考え違いしていたのではないか。
そんな気がしてくるのです。

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