堕落性を脱ぐ生活③「2種類の人間がいかに復活するか」
「堕落性を脱ぐ生活②『なぜその声を聞かなかったのか』」の続きです。
「堕落による死とは霊的な死である」
と、原理講論の「復活論」にあります。
霊的な死とは、サタンの主管圏に落ち込んだ状態のことを言いますから、その状態から神の愛の主管圏に帰っていかないといけない。
それを「復活」と言うわけです。
復活には2つの側面があると思います。
一つは、堕落によって作られてきた「罪」を清算すること。
もう一つは、やはり堕落によって受け継いできた「堕落性」を脱ぐことです。
この2つの問題を解決しながら復活するには、4つの原則があります。
① 復帰摂理の時代的な恵沢
② 神様のみ言葉を受けて人間が実践する
③ 肉身生活を土台として
④ 秩序的な3段階を経て
というものですが、ここで私は敢えて5つ目を付け加えて考えてみたいと思います。
⑤ 地上人と霊人との相互協力関係を通して
人間には、肉身をもった地上人と肉身を持たない霊人の2種類があります。
肉身を持たない霊人は彼自身の力だけでは最早復活することができないので、地上人の肉身の力を借りるしか術がない。
これを例えてみれば、地上人が運転する車(肉身)の助手席に霊人が乗り込んでくるという感じです。
この霊人がハイレベルの人であれば、素晴らしいナビゲーターになってくれる可能性があります。
これについては、
「いろいろの方面にわたる聖霊の代理をすることによって、地上人がみ旨を成し遂げていくよう協助する」
と表現しています。
こういう場合なら、車はかなりの速度で走り、目的地(天国)へ最短コースで向かえるかもしれない。
しかし実際には、こういう場合はむしろ稀で、大抵は質のあまり良くない霊人(悪霊人)が助手席に乗り込もうとする。
そういう場合にどうしたらいいかという実例が、復活論「楽園以外の霊人たちの再臨復活」という項目に書いてあります。
このような悪霊たちも、やはり再臨して時代的恵沢を受けるようになるのである。しかし、悪霊人たちの業が、みな再臨復活の恵沢を受けられるような結果をもたらすのではない。その業が、結果的に神の罰として、地上人の罪を清算させるような蕩減条件として立てられたときに、初めてその悪霊人たちは、再臨復活の恵沢を受けるようになるのである。
この場合での地上人の役割は、
「悪霊人が与える苦痛を当然のこととして喜んで受け入れる(これを甘受という)」
ということです。
お父様は、
「結論的に、私たちは清算しなければならない因縁なしには、どんな人(良い人も悪い人も)にも会わないし、どんな出来事(良いことも悪いことも)にも遭遇しない」(『原理に関するみ言の証』史吉女著)
と言われました。
私のところにある特定の悪霊が送られてくるのにも、何らかの必然的な理由があるはずだということになります。
問題は、私がそれをどう受け止めるかということです。
悪霊の業による苦痛を甘受した場合にのみ、神様はそれを蕩減条件として認め、その結果、罪が清算される。
そして、罪が清算されれば、地上人はもとより、悪霊人までも復活する。
我々が人生の中で日々遭遇するすべてのことには、そういう原理が隠されているようです。
思うに、この原理はただ単に罪を清算させるだけではなく、同時に堕落性までも脱がせようとする神様の願いが込められているのではないでしょうか。
復活というのは、罪が清算されるとともに、堕落性がなくなり、創造本性が現れるということでなくてはなりません。
ところが、振り返ってみて、これまで出会ってきた様々な苦痛を通して、我々はどれくらい堕落性を脱いできたでしょうか。
考えてみれば見るほど、「甘受」という二文字には非常に深い宗教的な復帰の鍵が隠されているような気がしてきます。

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甘受
日本人を操るには都合のいい言葉だね。
一族と韓国人幹部に自問するよう呼び掛けてみてはいかがかな。恨を反日朝鮮出カルトからよ~く教えてもらったよ。
大嘘付き反日カルトは、恨みを教えるのは得意だけど、甘受からは程遠い民族で、恩を仇で返す民族だった。
朝鮮で、甘受~って叫んでみてはいかがかな?