堕落性を脱ぐ生活①「なぜ弁解してしまうのか」
「堕落性を脱ぐ生活」
と題して行った講義の抄録を数回に分けて載せようと思います。
★★★
人間の堕落性について、お父様はこんなふうに言っておられます。
生涯の何年間にわたって身につけられた習慣性をなくすためには、死ぬほど努力しても足りないというのです。言い換えれば、何百万年も続いてきた習慣性と堕落性を抜き取るというのは、数世紀の人生路程をもってしてもできないというのが理論的です。
(『天聖経』8-1-3-20)
一読、ちょっと愕然とするようなみ言葉です。
堕落性を抜き取ることは理論的に不可能だと言っておられます。
諦めるしかないのでしょうか。
何百万年も続いてきた堕落性というのは、どこから始まったものですか。
天使長、アダム、エバからですね。
これを今の我々も持っている。
原理を聞いたので、これを抜き取りたいと思う。
そうしないと、本然の姿に戻れないと思っている。
ところが、何百万年も続いてきた堕落性を数世紀(数百年)で抜き取ることは理論的に不可能だとすれば、100年も生きられない我々には絶対無理だ。
ここでこのまま終われば、絶望の原理講義ですね。
「やっぱり堕落性を脱ぐなんて無理だったんだ。このままで仕方ないんだ」
ということになっては希望がないので、何とか方法を探さなければいけないでしょう。
そこでまず、我々の性質のどんなものを「堕落性」とお父様が見做しておられるかについて、見てみます。
同僚や子弟、あるいは家庭において「私」と関係を結んだ人たちの中で、弁解する人を好む人がいるか、見てください。皆さんは、自分に何か起これば、「あの人もそうだ」と言いながら、他の人を引っ張り込もうとします。「誰々もそうだったのに、なぜ自分だけ叱るのか」と言うのです。これは偽りです。自分が誤ったなら、率直でなければならないにもかかわらず、他の人にかみついて引き込もうとするのです。これが堕落性です。
(『天聖経』8-1-3-20)
「弁解する性質」
これが堕落性だと言っておられますね。
自分の非を追及されそうだと感じると、すぐ
「あの人もそうだ。悪いのは私(だけ)ではない」
と言って、他の人を引っ張り込もうとする。
これが弁解という名の堕落性です。
だから、そういう態度は偽りだと言うのです。
それではなぜ、我々は弁解せざるを得ない窮地に追い込まれるのでしょうか。
我々が何かをして、
「ああ、自分は良心に反してしまった」
ということを知っていると、どうしても弁解せざるを得ない気持ちになる。
何か理由をつけて正当化しないと、自分の良心が黙ってくれないと思うのです。
自分の中に理由を探すと自分の非を認めざるを得ない恐れがあるので、まず自分の外側に理由を探します。
それで他の人を引っ張り込むことになるのです。
そのようにして良心の声を受け入れず、むしろ良心を黙らせようとする。
これが、我々において容易に堕落性がなくならない理由ではないかと思われます。
このような態度で人間は数百万年も生き続けてきたので、今更数百年くらいの努力では変わろうはずがない。
これは理論的だ、とお父様は言われる。
しかし本当に治すのが無理なら、
「あなたは病気だ。しかし治療方法はない」
と医者に断定されたようなものです。
「そんなことなら、そもそも病気だと教えてほしくなかった」
とさえ思うでしょう。
お父様は決してそんな無責任な方ではないと思われるので、きっとどこかに治療の方法が隠されているはずなのです。
それを見つけないといけません。

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