川上で堕落性を解決する
「心とは何だろう?」
と考えるとき、私にとって第一の拠り所は、創造原理第6節です。
生心と肉心との関係は、性相と形状との関係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性一体化すれば、霊人体と肉身を合性一体化させて、創造目的を指向させる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。
二性性相原理に基づいた論理的な説明なので、納得できるような気になります。
少なくとも、次のような文先生の説明よりは分かりやすい。
仏教では、参禅を通して、心とは何かを研究してきましたが、いまだに心が何か分からずにいます。心は縦的な「私」です。また体は横的な「私」です。ですから、横的な私と縦的な私が統一される場で、私という人格が完成するのです。
(「天聖経」378)
仏教が2000年以上にわたって探求してきたにも拘らず、いまだにその正体を突き止められない「心」の正体。
それを明らかにしたように文先生は言われるのに、その説明がさらに分かりにくいというのは、困ったものです。
心の正体を探し求めて、
『脳はなぜ「心」を作ったのか
を読んでみました。
タイトルからすると典型的な唯物論ですが、面白いのは前野さんが提唱している「受動意識仮説」というものです。
前野さんは子どもの頃から「心の正体」を知りたくて研究者になり、試行錯誤の末この仮説に行き着いたのです。
そして、前野さん自身はこの仮説を、
「心の地動説へのコペルニクス的転回」
と表現するくらい、自負心をもっています。
心についての従来の考え方は「心の天動説」。
これはつまり、心が思って行動を起こす。
心が主体で、自分の体とか環境などの対象を動かす、と考えてきた。
ところが前野さんによれば、心はそんなに主体的なものではない。
心は物事を動かす主体ではなく、本当の主体は別にいるのに、なぜか自分を主体だと錯覚しているに過ぎない。
それで「受動意識」と表現するのです。
この仮説は細かく立ち入るとややこしいので、私が興味をひかれた部分だけを取り上げます。
「私」が考えるという行為は、実のところ、無意識下の小びとたち(脳科学的にはニューロンの働きと考える)が分業して行っている作業である。
言い換えれば、「私」が何かを考えたり思いついたりするとき、その考えや思いつきを形成しているのは「無意識」の小びとたちなのであり、「私」はそれをあたかも「自分がひらめいた」かのように錯覚しているに過ぎない。
これをさらに別の譬えで言うと、本当の考える作業は川上で行われていて、「私」は下流にいてそれを受け取る。
そしてその作業を「私」がしたのだと錯覚する。
なぜこんなふうに考えるかと言うと、そう考えるほうがいろいろな心の働きをより納得いくように説明できるからだと、前野さんは言う。
地道な観察によって、
「天動説はおかしい。観察結果に合わない」
と考えて、地動説を唱えたコペルニクスやガリレオと同じ考え方です。
この考え方は面白いと、私は思います。
実感に近いような気がします。
例えば、私の中の奥深くに堕落性が根を張っていて、これを脱ぐことが容易ではない。
堕落の思い、妬みや嫉妬、自己中心や不平不満などはどこからともなく出てくる。
それは「私」が思おうとして思うのではない。
「私」が思っているのではなく、川上で作られて流れてきたのを「私」が掬い上げているに過ぎない。
そして、
「私にはどうしてこんなに堕落性が強いのか」
と悩み続ける。
しかし実のところ、「私」がそれをコントロールしている主体ではないので、堕落性を脱ぐことがとても難しいのです。
これまで私たちは川下で堕落性を脱ごうと格闘してきた。
しかし根本的な解決は、川上でしなければならないのです。
川上を浄化しない限り、川下がきれいになることは決してないのが道理でしょう。

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