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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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着想というものは、やはり言葉ですか

20180508 

一度では終わらないだろうなと薄々思ってはいたが、やはりもう少し書いてみます。
岡潔・小林秀雄の「
直観と確信の雑談」(『人間の建設』)です。

岡がやってきた数学の専門内容は、小林には分からない。
しかし、人間の知性、もっと言えば情緒の営みとして、小林は興味を持つのです。

「岡さんの数学というものは、数式で書かれるほうが多いのですか、それとも文章で表されるのですか」
という質問は、いかにも言葉の世界に生きる小林らしい。

岡の答えは、ちょっと意外です。
「なかなか数式で表せるようになってこないのです。ですから、たいてい文です」

文といっても、普通の言葉ではない。
本人にだけ分かる「符牒」のような文章です。
それでも、思索には必ず言葉が必要だというのです。

「着想というものは、やはり言葉ですか」
と小林が確認すると、
「方程式が最初に浮かぶことは決してありません」
と岡は答える。

そして今度は、岡が小林に尋ねる。
「小林さんはずいぶんお考えになりますが、そのとき、言葉にたよって考えているでしょう」

すると、小林の答えがまた面白いのです。
「考えるというより、言葉を探していると言ったほうがいいのです。ある言葉がヒョッと浮かぶでしょう。そうすると言葉には力がありまして、それがまた言葉を生むんです。私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。ヒョッと言葉が出てきて、その言葉が子供を産むんです。そうすると文章になっていく」

この実体験は、フランス人哲学者ロラン・バルトの言うことと、全く軌を一にしています。(「最初に被造物、創造主は事後的に出現する」)
私も、小林の境地には遠く及ばないものの、ブログの記事を書きながら似たような体験をよくします。

岡は、現代数学の最先端を理解するには、最低修士レベルまでの18年の教育を必要とする、と言う。
数学の中身は積み木を重ねるように長い年月をかけて構築されてきたので、その最上階の数学的言語を理解するだけでも、一人の人間としてはあまりにも長い年月を要するのです。

これは普通の言葉の世界もまったく同じことで、小林が言うように、考えるということが言葉を探すということであるなら、よく考えるには最も適切な言葉を探し出さねばならない。
そのためには、できるだけ多くの選択肢があったほうがいい。

日本に生まれて日本で育つというのは、10歳なら10年、20歳なら20年、そして結局、一生の間言葉(日本語を主軸として)を習得し続けるということだとも言えます。
18年なんて取るに足りない。

もっとも、言葉の選択肢が多いと言うだけではだめで、最も適切な言葉を探し出せる能力こそ重要。
言うまでもないことですが。

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