感謝する生活追補「アベルを変えようとしない」
先日まで6回にわたって「感謝する生活」の講義を抄録してきて、一応結論までいったのですが、追補してみようと思います。
私たちが今日、生活の中で遭遇する苦痛、さまざまな問題の根本起源は、アダムの家庭にあると考えられます。
人類初代のアダム・エバは愛の問題を起こし、その後、責任転嫁をするという堕落性の根を作りました。
さらにその二世であるカインとアベルは、妬みから殺人事件を起こしたのです。
ここでは二世の長男であるカインに焦点を当てて考えてみます。
弟アベルの供え物は神様に取られたのに、カインはなぜか拒否された。
彼が憤ったのは当然ですが、それでも彼が神様に受け入れてもらうには弟を通すしかない。
それがカインにおける「堕落性を脱ぐための蕩減条件」だと、原理講論では説明されています。
ところが、アダム家庭の「実体基台」の部分には、こんなことが書いてあるのです。
我々の個体の場合を考えてみると、善を指向する心はアベルの立場であり、罪の律法に仕える体はカインの立場である。したがって、体は心の命令に従順に屈服しなければ、私たちの個体は善化されない。
これはとても重要な指摘だと思います。
原理講論をそのまま読めば、堕落性を脱ぐための蕩減条件を立てるには、天使長の立場にいる人(カイン)がアダムの立場にいる人(アベル)に従順屈服して、彼の主管を受ける立場に立たねばなりません。
しかし、本当の蕩減条件はそのような人と人との関係から始まるのではなく、一人の人の個体の中から始まる。
「個体が善化される」
とは、まさに心と体との関係で蕩減条件が立って堕落性が脱がれていくということでしょう。
少し極端に言えば、カインがアベルに従順屈服して堕落性が脱げるのではない。
カインならカインの内面において蕩減条件が立ち、カインという個体が善化される(堕落性が脱げる)ことによって、アベルに従順屈服できる。
順序が逆なのです。
それなら最も枢要な問題は、どのようにすれば心の前に体が屈服するかということです。
カインは苦痛を感じています。
苦痛を与えているのは、目の前のアベルです。
復活論における「悪霊の再臨復活」に即して言えば、神様がアベルに悪霊(この場合、サタンそのものか)を遣わし、アベルを通してカインに苦痛を与えているとも考えることができます。
すると、ここでカインが蕩減条件を立てるには、その苦痛を、
「当然のことのように、喜んで受け入れる」
必要があります。
これが、体が心に屈服するということです。
しかし、これは難しい。
死んでもできないと思えるほどに、難しい。
カインにとってアベルは同じ家族の一員で、いつも目の前にいる。
逃げることも追いやることもできない。
アベルは供え物を受け取ってもらって有頂天になっている。
兄に対して傲慢な振る舞いもあったかも知れない。
そんな弟を、カインはどうやって受け入れることができるのか。
聖書を見ると、神様はカインに一つのヒントを与えられます。
「なぜあなたは憤って顔を伏せるのか。正しいことをしているのなら、顔を上げなさい」
問題はアベルではない。
アベルを変えようとするな。
問題は、あなたの心の中にある。
あなた自身が「正しい心」を持っているかどうかだ。
正しい心を持てば、あなたは体を屈服させて、顔を上げて堂々と、正しい道を行くことができる。
正しい心こそ、体を屈服させることができる。
しかしカインがアベルを殺したのを見ると、結局カインは正しい心を持つことができなかったようです。
そうだとしても、我々はカインを責めることはできない。
我々は誰でもカインと同じ課題を抱えており、それを克服すべき責任を負っているのです。
「私が今受けている苦痛を当然のこととして、喜んで受け入れる」
これが容易にできないために、今でも我々は自分の堕落性がなかなか抜けなくて苦悶している。
そう思っています。

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