目に光るものがあるよ
今日、聖和式を担当したのは本当に久しぶりのことです。
家族と数名の親戚だけが集まった小さな聖和式。
その中には幼い孫たちが8人いて、式の後、棺のおじいちゃんにお供えの花をきれいに掛けてあげる姿が、とても微笑ましく、印象的でした。
火葬場に到着し、最後のお祈りをしようとした時、親戚の婦人が故人の顔をじっと見つめて、
「目に光るものがあるよ」
と言われる。
言われてみると、確かに光るものがあり、涙のようにも見える。
亡くなった後に本当にそんなことがあり得るのかどうか、私には分かりませんが、
「おじいちゃん、喜んでくれたのかなあ」
と、一同は思ったのです。
さて、聖和式で伝える聖和の辞と言えば、基本は「人生の3段階」。
親戚の方はまだ教会のこともみ言葉もほとんど知らない方ですから、霊界に行く準備期間としての地上生活について簡略に話しました。
そしてその後、地上の我々と霊界に行った方との関係について、こんなふうに付け加えて説明したのです。
★★★ ★★★
この世に生きている私たちは、例えて言えば、自分の車を持っている。
行きたいところがあれば、ガソリンを入れて、どこにでも行けます。
歩いていくより、余程速い。
この「自家用車」に当たるものが、私たちの肉体です。
それに対して、霊界に行ったというのは、この車を手放したということ。
行きたいところがあっても、自前の車がなければ思うに任せない。
それでこれからは、皆さんが自分の車の助手席におじいちゃんを乗せてあげてください。
そうすれば、おじいちゃんは行きたいところに一緒に行ける。
より良い所(天国)へのルートを私たちよりもよく弁えて、私たちをナビゲートしてくださる。
これは具体的に言うと、こういうことです。
おじいちゃんは、娘や孫たちを可愛がってやりたくても、体がないので実際にお小遣いをやったり、面倒を見てやったりはできない。
それで、地上の私たちがお互いに気遣い、愛し合えば、私たちの体(車)を通して、おじいちゃんもその愛の輪の中に入り、愛を体感することができる。
あるいは、家族に悩みや困ったことがあれば、おじいちゃんはちょっと次元の高い知恵をもって、それとなく通信を送り、アドバイスしてくれることもあり得る。
これからは、自分の車の助手席におじいちゃんを同乗させたつもりで生活してください。
そうすれば、1日24時間でも一緒にいることができます。
特に奥様は、そのように考え、心を開いて暮らせば、寂しさも少なくなることと思います。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
聖和に備える 2012/06/22
-
人生100年時代の希望 2022/05/26
-
昇華を喜ぶ文化 2010/06/07
-
霊界の不可解さを解く 2011/07/25
-
スポンサーサイト