神の声を聴きとる者
私が今読んでいるのは入門書(『白川静入門
白川静によれば、漢字はひとつひとつがバラバラにあるものではなく、そのすべてが古代なりの論理でしっかりと体系的につながっている。
それゆえ、ある一つの漢字の成り立ちが理解できれば、それにつながる漢字を自然に、連続的に理解していくことができる。
しかし、その古代の論理を正確に読み解くことは容易であるはずがない。
白川はそれをどのようにやり遂げていったのだろうか。
作家の辻原登は、それをこう推察します。
「白川静が考えたことは、想像力を駆使しないと出てきません。本当に想像力の世界ですよ」
その人並外れた想像力は、日本で言えば、他に折口信夫か柳田國男くらいしか比肩する者のないレベルです。
もちろん、想像力だけではないでしょう。
直観や閃き、あるいは洞察力、そういったものが複合的に駆使できて初めて、3000年以上前の人々が漢字のもとを作り出していくプロセスに肉薄できるものと思われます。
白川文字学における最も重要な発見の一つと言われるものに、「口」の解字があります。
多くの学者がこれを人の顔にある「くち」と解釈してきたのに対して、白川は異を唱える。
比較的新しく作られた漢字には当てはまるものもあるが、最初に作られた時の意味は、
「神様への祈りの祝詞を入れる器」
であるというのが、彼の説です。
このような意味の「口」を使った漢字は多くありますが、典型的な漢字を一つ挙げれば、「器」という漢字こそそのものずばりです。
「器」の旧字体は「大」の部分が「犬」です。
昔、祝詞を入れた器をいくつも並べ、その器の清めのために、いけにえの犬を捧げてお祓いをした。
器はお祭りに使うものであるので、お祓いをして清めてから使った。
それが白川の字説です。
こういう白川の説がより真実に近いかどうかの判断基準は、「口」を上のように解釈することで、ほとんどすべての「口」を使った漢字の成り立ちを論理的に説明できるかどうかというところにあります。
もっとも、それを学問的に紹介するのがこのブログの趣旨ではないので、もう一つだけ、私が興味を持った漢字を紹介するに留めます。
「聖」
という漢字。
これにも「口」があります。
家庭連合の中ではこの字を解して、よく、
「耳と口の王。つまり人の言葉をよく聞き、自分の口から出る言葉に慎重である王様こそ、聖人である」
などと言うことがあります。(この説のもとは、文鮮明先生でしょうか)
しかし、白川説によれば、「口」はそもそも言葉を喋る「口」ではない。
「耳」の右にあるのは、神様への祈りの言葉である祝詞を入れる器。
そして下の「王」は、「つま先で立つ人を横から見た姿」です。
すると「聖」という漢字は、
「神に祈り、つま先立ちで、耳を澄ませて、神のお告げを聴いている人の姿」
なのです。
それで「聖職者」とは「神の声を聴きとれる人」を言う。
そして、古代の偉大な王は基本的に「神の声を聴きとれる」という特殊な能力のゆえに、神聖王として多くの人民の上に君臨できたのです。
文鮮明先生も漢字を解読される方でした。
例えば、上の「聖」もそうだし、あるいは、
「天とは二人ということである。だから天国は二人の国である」
などとも説明されました。
白川説によれば、学問的にはそういう「天」の解釈は出てこない。
しかし、文先生は学問的にその漢字の生成過程から考える方ではなく、むしろ、そのもう一つ奥にある(漢字製作者が考えもしなかった)神様の理想、創造原理からアプローチして直観的に把握する方なのでしょう。
そう考えれば、
「天国は二人の国」
という解釈が出てくるということ自体、まさに文先生という方が「神の声を聴きとる聖なる方」だという証拠にもなり得ます。

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