沈黙の神の弁明者
特に韓国の時代劇などを観ていると、父母や王が子女や臣下に対して優しく接せず、わざと辛く当たって敢えて試練するというような場面がよく出てきます。
「お前のためだ」
と言えば、試練にならないので、敢えて言わない。
理由が分からずに苦労するほうも辛いが、本心を言わずに試練するほうは、もっと辛いだろうと思います。
どうも、神様にもそういうところがあります。
それで、
「沈黙の神」
と言ったり、
「そういう神なら、死亡宣告をする」
などと叫んだりする人もいるのです。
聖書を読むと、例えば、アダムの2人の息子、カインとアベルが供え物をしたのに、神様はカインのものだけは受け取られなかった。
しかし、なぜそうされたかについては、何も言われない。
それで、カインは差別を受けたと思って憤り、遂には弟を打ち殺した。
時代が下り、ノアが箱舟を完成すると、洪水を敢行し、多くの人々を水死せしめた。
世が乱れたとはいえ、あまりにも非情ではないか。
しかし、なぜ、どんな気持ちでそうされたかについて、神様は黙して語られない。
信仰の篤いアブラハムに、一人息子の命を要求された。
「お前の子孫を空の星のごとくに祝福してやる」
と言った先の約束と矛盾する命令をしながら、そのときもまた、神様は内情を語られない。
イエス様が約3年間、地上で苦労されながら、最後には十字架の道に追い込まれた。
その苦痛と絶望の只中で、神様は沈黙され、イエス様の訴えに応答されなかった。
それにそもそも、神様はなぜメシヤ一人を送られるのに4000年もかかったのか。
イエス様以後、なぜキリスト教はかくも厳しい道を世界のいたるところで歩まざるを得なかったのか。
神様ご自身が何も言われないために、神様を信じようとする人たちはあまりにも長い間、苦悶せざるを得なかったのです。
ところが、その理由を、原理があまりにも明確に教えてくれます。
原理講論の後半、所謂「復帰原理」は、復帰の原理原則を解明しただけではない。
また、摂理を発見して、神はやはり存在すると、神の存在証明をしようとしたのでもない。
あの時、神様はなぜあのように沈黙せざるを得なかったのか。
なぜ復帰の摂理をかくも長く延長せざるを得なかったのか。
その神様の内情を初めて深く解明したのです。
神様は、説明しない方。
弁明をしない方。
神様はどうして弁明も説明もされないのか。
原理があるので、蕩減の道は外せないのでできないのだと伝えることができなかった。
蕩減の道は、神様が貴重なものをサタンに与えて満足させ、その代わりにサタンが持っているものをより多く取り返す作戦です。
常に人間が喜ぶものだけを与えることが最善ではない。
しかしそれは、神様を信じる者たちには喜ばれず、誤解もされやすい。
本当は愛しているのに、あたかも愛していないように、冷たい神のように摂理をするしかないことが多かった。
「お前たちを誰よりも愛している」
と言えないことが、どれほど辛いことだったか。
弁明されない神様の内情を原理が代弁しました。
そうすることで、原理は神様を解放したと思われます。
原理を学んでみると、そういう神様の内情が少しは分かった気でいたのです。
それなのに、気がついてみると、いつの間にか自分なりに考えている自分がいる。
なぜ真の家庭は問題が多いのか。
なぜ私の家庭に悲しみが起こるのか。
こういう目の前の問題は原理講論に書かれていないので、自分で考える。
その時、復帰原理の原則に則って考えればいいのに、つい自分の考えが出てしまう。
原理(神様の考え)と私の考えと、どちらがより包括的かと考えれば、答えは明らかです。
それなのに、より小さなものをもってより大きなものを判断するという愚を、つい犯してしまう。
集合で考えれば、
A(神様の考え)>B(私の考え)
BでAを判断すれば、Bの範囲しか分からない。
Bが大きくなった分だけ、Aのことがより全体的に分かる。
BはAを受け止める器ともいえるので、神様は原理が実体化するには、我々の考え(B)が限りなく原理(A)に近く広がるのを待つしかないということになります。

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