神様はいつ「愛の神」になるか
「喜びはいかに生まれるか」
というタイトルで行った説教の2つ目のポイントは、
「愛を与えて美が返ってくる、というのは本当か?」
ということです。
従来、創造原理第3節の「神の喜びのための善の対象」を講義するとき、大体こうです。
創造主である神様はご自身の性相と形状のとおりに有形の対象を創造し、その対象に愛を授ける。
すると、対象から美の刺激が神様に返ってくるが、それが神様に「喜び」として感じられる。
つまり、愛が先にあり、それを受けた対象から美が返ってくる。
しかし、本当にそうだろうか。
天聖経に、こういうみ言葉があります。
ペアで宇宙を創造したところから絶対信仰観が出てきます。
ペア・システムが生じたのは、愛のためです。
ですから、絶対信仰の上に愛の道が関わるようになります。
絶対信仰の上に真の愛が植えられるのです。
(『天聖経6-1-2-17)
ペアシステムの宇宙を創造する過程は、神様において「絶対信仰」の段階です。
「このように造れば、必ず理想的な世界ができるはずだ」
と、神様が絶対的に信じながら創造される。
そして、最後にいよいよ人間が造られ、そこからかつてないほどの美が感じられるようになる。
その段階まで来て、愛の道が現れる。
これを私なりに説明すれば、被造物が実体として完成するまでの長い期間は、神様にとって「絶対信仰」の期間です。
その期間に神様は多くのものを投入されるのですが、それが一体「愛」なのかどうか、神様にもよく分からない。
しかし、その投入の結果、対象が成長完成していくようになると、「美」が感じられるようになる。
その「美」とは、すなわち「愛した喜び」です。
つまり、「美」を感じるようになって初めて、神様は、
「絶対信仰であれほど投入したものは、愛であったんだなあ」
ということが合点される。
言い方を換えると、「美」を感じて初めて、「愛」を自覚するようになる、ということです。
「美」が感じられるまで「愛」はないと言ってもいい。
被造物、特に人間の中に「美」を感じるようになって初めて、神様は「愛の神」になる、とも言える。
もし、このように考えていいなら、この原理は私たちの生活に、どのように当てはめることができるでしょうか。
私たちが夫婦で、あるいは親子で(その他さまざまな人間関係で)情的な関係を結ぼうとするとき、主体は愛を与える立場だというのですが、「愛する」というより、「絶対信仰で投入する」と言ったほうがいいと思われます。
相手が良く反応してくれようが、あまり反応してくれなかろうが、
「必ず良い対象になってくれるはずだ」
という絶対信仰で投入し続ける。
その投入の結果、対象の中に「美」を感じるようになったとき、
「私がこれまで投入してきたものが『愛』だったんだなあ」
と思われ、喜びが生まれてくる。
それで、
「美とは愛した喜びだ」
と言えます。
従来の喜びの講義で、「愛」を与えたら「美」が返ってくると言っていたところは、「愛」は「絶対信仰による投入」であり、「美」と思っていたのが実は「愛(の実感)」だと言えます。
「これほど愛したのに、どうして美を返してくれないのか?」
と考えて、葛藤することがありますが、そんなふうに考えるべきではない。
投入は愛ではなく絶対信仰なので、結果を信じてひたすら投入するのです。
対象に美を感じるようになるまで投入は完了しない。
美が返ってこないということは、まだ投入が足りない。
そう考えるしかありません。
子女に「美」を感じるようになって初めて、親は「愛の親」になる。
子女の姿によって、親の価値が評価されるし、子女の完成によって、親も完成する。
だから、人間の完成によって、神様も完成する。

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