活けてみるまで分かりません
「喜びはいかに生まれるか」
というタイトルで、礼拝の説教を担当しました。
喜びについての説明は、創造原理第3節にあります。
喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体(有形のもの)であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。
ここは、原理の核心とも言うべき箇所です。
私には伝えたいポイントが2つあって、その2つがうまくリンクしなかったので、聞いている人にはちょっと分かりにくかったと思います。
ここでは、ポイントを分けて要約してみます。
第1のポイントは、
「創造された被造物、とりわけ我々人間は、神様の構想のとおりに造られたのか、あるいは構想以上のものとして造られたのか」
ということです。
私はこれまで前者のように考えてきました。
つまり、神様は太初に非常に明確な人間(アダム・エバ)のイメージを構想され、そこから要素を順次捨象しながら万物を低級なものから創造された、そして最後に最初のイメージとおりに人間を造られた、というふうに。
ところが、私たちの創作の仕方を考えてみると、どうもそうではない。
例えば、「書く」という私の体験として「最初に被造物、創造主は事後的に出現する」で書きました。
説教では別の例を挙げてみました。
説教台の横に花が活けてあります。
心得のある婦人が、前日に花を選んできて活けてくれるのが習わしです。
「活ける前から、この通りに活けようという明確なイメージがありましたか?」
と、説教の中で今回の婦人に尋ねると、
「活けてみるまで分かりません」
という、当然の答え。
手元にある花を並べて見て、
「大体、こんなふうに」
という主要なポイントはイメージします。
しかし、微妙な配置や組み合わせは、実際に活けていく過程で段々とその姿を現してくるのであって、それがどういう姿なのかは、活ける人にとってもその姿を見て初めて分かる。
そして、活け終わってみて、
「ああ、自分はこういうふうに活けたかったんだなあ」
ということに得心が行く。
有限な人間とは違い、全知全能の神様ならば、初めからすべてを設計することができるのでしょうか。
もしかしてできるかも知れない。
しかし、それでは面白くない、と思うのです。
聖書を見ると、6日目に人間を造り終えて、
「はなはだ良かった」
と、神様は言われました。
それは、
「私の設計図通りに出来上がったなあ」
という感慨ではなく、むしろ、
「私の設計図以上に、もっとうまく出来たなあ」
という感嘆だったのではないか。
なぜ全知全能の神様が描いた設計図以上のものができるのか。
それは創造の過程において、数限りなく新しい工夫が出てくるし、天使の意見も聞いて、神様なりに修正をかけていかれるからです。
それで、アダムとエバを造ってみると、
「ああ、私はこういう人間を造りたかったんだなあ」
ということが初めて分かり、神様ご自身が感動する。
このような創造の過程を、文先生は、
「万能の神様が投入しては忘れ、投入しては忘れながら、100%以上のエネルギーを投入して造った」
と表現されるのではないかと推測するのです。
このようにして造り上げた対象であってこそ、神様はご自身の性相と形状を相対的に感じて、至高の喜びを感じることができる。
ただし、これだけではまだ、神様に喜びが生まれるというプロセスのすべてを説明し尽くすことができない。
それが、2つ目のポイントです。

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