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記憶こそが私の人生か

kitasendo
20180227 

認知症が着実に進んでいる母と暮らしていると、
「人の記憶」
というものの不思議を考えさせられます。

大抵は母を寝かせてから私が寝るようにしていますが、時々疲れて母より早く床に就くことがある。

「先に寝るよ」
と言っておくのに、母は私の姿がないと、
「まだ、帰っていないのだろうか?」
と心配になって、私の部屋までやって来て私がいるのかどうか確かめようとする。
ついさっきまで私と一緒に台所でお茶を飲んでいたということを忘れているのです。

時には、一旦2階に上がった母が夜中にまた降りてきて、味噌汁を作り始めることもある。
驚いて理由を聞いてみると、
「夕ご飯がまだだろう?」
と言う。
数時間前に夕食を食べたことを忘れているのです。

「人間はこれほどまでに忘れるものか!」
と、半ば感動するほどです。

ところが反対に、何十年も前のことはよく覚えている。
嫁に来た頃の話、あるいは45年前今の家に引っ越した時の話。
そういう印象的な体験は繰り返し聞かせてくれます。

こんな状態であの世に行けば、持っていけるこの世の記憶は本当に印象的だったものだけ、十指に足りない程ごくわずかかもしれないと思います。

私たちは通常、時間の流れに沿って体験し、それが順番に記憶として残ると考えます。
子ども時代の体験は古い記憶、昨日の体験は新しい記憶。
そんなふうに思っています。

しかし母を見ていると、〇十年前と〇時間前とは、一体何が違うのか、分からなくなる。

〇十年前の体験は、実際、〇十年前にはない。
というより、〇十年前という時は、もはやない。
それと同様に、〇時間前も、もはやない。

あるのはただ、
「〇十年前(あるいは〇時間前)に、こんなことがあった」
という記憶だけです。

ならば、その記憶はどこにあるのか。

何らかの体験を思い出して、
「あの時、あんなことがあったなあ」
と思う時、その記憶自体は思い出している「今」に存在している。

すると、記憶は「今」にしかない。
それを
「〇十年前の体験は、確かにあった。それを消すことはできない」
などと考えるのは、頭の余計な働きかも知れない。

私たちの人生は、体験によって作られるのでは、どうもない。
むしろ、私たちの人生は、その体験をどのように記憶したかというその記憶によって作られる。
記憶こそが私の人生ではないか。

その記憶は「今」にしかないのだとすれば、「人生80年」などというのは一種の幻想で、私の人生はつねに「今」しかない。

それなのに、もはやないはずの過去に、私たちはあまりにも拘束されて生きている。

「若い頃、あんな辛いことがあったなあ」
という、もはやない過去に苦しみ続ける。

神様はどうだろうかと、思う。
アダムの堕落、イエス様の十字架、そういう苦痛の数々を、神様は今も忘れられずにおられるのだろうか。

人間の人生も記憶でできているように、神様も記憶でできている方かも知れない。
神様が本来の神様に戻るには、過去の辛い記憶をすべてきれいに消去し尽くす必要がある。
アダムの堕落を忘れ、イエス様の十字架を忘れない限り、本来の神様には戻れないでしょう。

我々においても、そうです。
我々も、過去の体験を今の記憶によって苦しんでいる。
だから、堕落生活の体験をすべて記憶から消去する。
それができないと、堕落圏からすることは不可能だと思われます。

記憶を消す方法が必要です。

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