すみれは、すみれ
先日、何気なくテレビのスイッチを入れると、金曜ロードショーで上映中の邦画が目に留まる。
タイトルを調べると、
「天才を育てた女房」
佐々木蔵之介が演じる主人公は、細身で、豊かな髪はぼさぼさで、振る舞いはどこか変人じみている。
妻と思しき女性や友人が彼のことを
「きよっさん」
と呼んでいる。
もうしばらく見ていると、友人が、
「岡さん」
と呼ぶのを聞いて、
「ええっ! 岡のきよっさん。岡潔先生?」
と初めて気がついて、驚いた。
改めて番組表を出してみると、副題に
「世界が認めた数学者と妻の愛」
とある。
間違いない。
岡先生に直接お会いしたことはないが、私にはちょっとした因縁がある。
8年ほど前のブログ記事で、こんなふうに書いたことがあります。
もうだいぶ前に亡くなった、天才数学者、岡潔先生について初めて聞いたのは、大学の先輩からだった。
その先輩は何かの縁で、当時奈良に住んでおられた岡先生を訪ねてお話を伺ったことがあるのです。
話の合いの手に、先輩が、
「宇宙の原理は・・」
などと、聞きかじりの知識を自分で悟ったかのように、つい差し挟んだところ、いろいろな質問に快く答えておられた岡先生が、俄かに恐ろしい剣幕で怒り始めたというのです。
しかもその剣幕が尋常ではない。
あたかも宇宙全体を抱えておられるかのように、全身全霊で怒られる。
人がそれほど真剣に怒る姿を、その先輩は初めて見たと、感慨深く教えてくれたのです。
(「美しい情緒の力」)
数学のことはさっぱり分からないが、その人となりに興味を抱き、
『春宵十話』
『人間の建設』
など、岡先生の本を何冊も読んだ。
そして、その人並外れた洞察力の虜になったのです。
読んだ随筆の中には、数学の難問を考え続けた時の様子は描写されていても、奥様のことはほとんど触れられていない。
今回ドラマを観て、その名前も初めて知ったのです。
「なるほど、あの奥さんがいなかったら、岡先生は人生破滅していたかもしれない」
という気がしました。
数学に閃きは必須のものでしょうが、岡先生はその閃きを大きく3つに区別しています。
① インスピレーション型発見
② 梓弓型発見
③ 情操・情緒型発見
西洋の数学発見の多くはインスピレーション型発見によっており、岡先生自身も若い時代にはこれが多かった。
しかし、年齢を重ねるに従い、鋭いインスピレーションが減ってきた代わりに情緒型の発見が出てくるようになったと言っておられます。
この「情緒」というのは、岡先生の哲学の核心ですが、普通に考える「気分」とか「感情」という域を超えたもので、理解は簡単ではない。
園遊会で陛下から
「数学はどうやってやりますか?」
と尋ねられて、
「数学は情緒でやります」
と岡先生が返答したという。
岡先生の考えでは、純粋な情緒を保つには「無明」を消さないといけない。
「無明」とは仏教の言葉ですが、原理の用語で言えば「堕落性本性」に近いものと思います。
「無明」が消滅した状態とは、どういうものでしょうか。
ドラマの中では、文化勲章受章式の折に記者たちからの質問に答えるという形で、こんなふうに言っています。
「すみれは、すみれとして咲いていればよい」
あるいは、随筆の中で取り上げておられるのは、
『古事記』に出てくる
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」
という歌。
これを岡先生は、
「雄大で健康的な歌」
と評する。
それに対して、後の時代の名歌と言われる
「心無き身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
という西行の歌については、
「無明を直視したため、美しく弱々しい」
と評するのです。
こういう洞察は、普通の文芸評とはだいぶ趣が違います。
数学の世界ではないが、岡先生ご自身の言葉で言えば、「情緒型発見」と言えるのかもしれません。

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