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最初に被造物、創造主は事後的に出現する

kitasendo
20180216 

しつこいようですが、『街場の文体論』(内田樹著)からもう少し、私が惹かれるテーマを取り上げようと思います。

フランス人哲学者、ロラン・バルトが、
テクスト
について、一般の常識とはいささか違う意見を提示しています。

ここで言う「テクスト」とは、
「言葉によって編まれた言いたいことの内容」
です。

人が何かものを「書く」という場合、普通にはまず、
「言いたいこと(イデア)」
があると考える。

それを「書き手」が媒介して、それをさらに「テクスト」が媒介し、最後に「読み手」が媒介して伝達される。
ここで描かれるイメージは、「イデア」「書き手」「テクスト」「読み手」という流れで伝達される直線的なプロセスです。

しかし、こういうイメージをバルトは退ける。

書き手なんかいない
と言うのです。

最初にあるのは「テクスト」であり、「テクスト」が書かれた後になって、初めて「書き手」と「読み手」が登場してくる。
そして、「書き手が言いたいこと」と「読み手が読み取ったこと」が一番最後に、テクストの派生物として作り出される。
普通の考えと、ほぼ真逆です。

あまりに突飛なようで、これだけでは、ちょっと分かりにくいですね。
内田さんは、こういう実感を例に引いています。

何かものを書こうとするとき、
「これからこんなことを書こう」
ということについて、明確なプランがあることは、まずない。

ほとんどの場合、頭にあるのはいくつかの「キーワード」だけ。
そのキーワードを書き付けたら、何となく後が続きそうな気がする。
それで、取り敢えず書いてみる。

書いていくうちに、
「自分でも思ってもいなかったこと」
がどんどん出てくる。

書き上げた後で読み返してみると、
「なるほど、こういう考え方があるのか」
と、自分が驚いたりする。

これが、
「テクストが書かれたのちに、書き手が事後的に出現する」
という実感なのです。

私にも、同様の実感があります。

ブログを書くとき、頭の中にあるのは大抵、1つか2つのキーワードだけです。
書く前には、今日一体どんなブログになるのか、漠然としか分かっていない。

それが、書き進んでいくうちに、
「へえ、自分はこんなことを書きたかったんだ」
ということが見えてくるのです。

だから、バルトの言い分は穿ったように見えながら、
「確かにそうだな」
と思う。

こんなことに拘るのも、私の実感をことさら言いたいわけではない、神様の創造のプロセスが気になるからです。

これまで私は、創造の初めに、
「私はこういうものを創りたい」
という明確で具体的な「イデア」が神様の中にあったのだろうと思ってきました。

特に、息子娘としてのアダム、エバのイメージは明瞭に神様の中にあった。
それに基づいてイメージを捨象しながら万物を構想し、統一思想でいうところの「外的形状」を使って被造物の創造を展開された。

そんなふうに思ってきたのです。
しかし、必ずもそうではないかもしれない。

創りたいという抑えがたい欲望はあったのですが、どんなものを創るか、それはもしかして、最初から明瞭だったわけではない。

我々がものを書くとき、最初に「テクスト」があって、「書き手」が事後的に出現する。
それと同様、神様が創造するとき、最初に「被造物」があって、「創造主」は事後的に出現する。
そんなふうに考えられなくもない。

高速で膨張する宇宙と、その中で正確無比かつダイナミックに運航する天体を眺め、さらには地球上で動き始めた生命体を眺めながら、
「へえ、私はこういうものを創りたかったんだ」
と、神様自身が今更のように感動する。

さすがの神様も、最終的に出来上がるべき世界のビジョンはあったとしても、そのビジョンにはまだ出会っておられない。
そのビジョンが実体化するまで、そのビジョンが一体どんなものであるのか、その細かで具体的な姿は、神様にも分からない。

最初に描いた青写真の通りに出来上がっていく被造世界を眺めるのは、考えてみると、それほど大きな歓喜を生み出さない。
むしろ、最初の荒いデッサンが次第に、そして思いがけず面白い実体として現れてくる。
そのほうが神様にとっても、よほどドラマチックではなかろうか。

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Admin:kitasendo