他者を伴わない言語はありえない
先日の記事「母語が痩せ細っている」で、韓国語版への前書きだけ紹介した『街場の文体論
内容は内田さんの大学での最終講義に加筆したものです。
こんな魅力あふれる、わくわくするような講義を、私も大学で聴講したかったと思います。
読んだところまでで、少しご紹介したい。
人間というのはいつだって「誰か自分ではない人間」が横にいて、その人との共同作業じゃないと、一言だって口にできないもんなんですよ。
「他の人が見たら、その意味がわかる動作」「他の人が聴いたら、その意味がわかる言葉」を使って自分の思念や感情をかたちにする。
他者を伴わない言語はありえない。
これについて、内田さんはこういう状況を例に挙げています。
鏡に向かって、
「おまえ、いまのどう思うよ」
「あれはないよ」
「だよな? あれはないよな」
というように対話しているときだって、実は自分と少しだけものの見方が違う人間を想定しているわけでしょ?
そうじゃないと、鏡に向かってしゃべっている言葉に客観的な基礎づけができないから。
鏡の中の自分でなくても、もし目の前の相手が自分と全く同じ思考回路と同じ感情を持っている人間であったら、言葉は出てこない。
言われてみると、確かにそうかな、と思う。
時々、「独り言」を言う時があります。
その時、「話す私」と「聞く私」は同一ではない。
そういう2人の「私」がいなければ、わざわざ言葉を出す必要がない。
というか、言葉を発すること自体ができない。
もう少し考えると、言葉を発する前、頭の中にさまざまなアイデアが生まれ、淘汰され、進化していくとき、私の中にもやはり「話す私」と「聞く私」がいなければならないように思えます。
思考というのは、私の中での2人の「私」のやり取りがあってこそ生起する。
このような知見に接して、次に思い至るのは、原初の神様です。
創造を始める前、単独でおられた神様には「言葉」がなかったのか?
たとえ「言葉」の種のようなものはあったとしても、それを発する相手、つまり「聞く神様」はいない。
そうすると、神様は何はともあれ、二性性相の神様にならざるを得ない。
「話す神様」と「聞く神様」の二性性相。
この二性は、思考回路も感情も、微妙に違っている。
そうでないと、対話ができないから。
主体に対しては、対象。
男性に対しては、女性。
この二者は、微妙に違わなければならない。
神様の内部で対話が成り立つようになって初めて、
「こういうものを創造しよう」
というアイデアが発展する。
しかし、それだけでは何かまだ足りない。
そこで、最初に創造したのが、対話の相手になってくれるもの。
つまり、天使を創らざるを得ない。
天使は神様の対話の相手になるために、言葉を話せなければならない。
そして、神様とは違っていなければならない。
思考回路も感情も、神様とは微妙に違う天使たち。
そうであってこそ、神様から言葉が出始める。
初めて自分の口から言葉が出始めた時の、神様の感動はどれほどだったでしょうか。

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