「この人は、おかしい」はおかしい
日々、些細なことで思い悩むことが多い。
「どうしてあの人は、あんなに無駄が多いのか。もっと節約すればいいのに」
「いくら年を取ったといっても、もう少し老化に抗って頑張ればいいのに」
自分なりの価値観の判断基準から外れている行動を目の当たりにすると、
「この人は、おかしい」
と思う。
「もう少し、節約を心掛けろ」
「もう少し、前向きに頑張れ」
と言いたくなる。
批判心に満ち溢れる。
そして
「私の価値基準に合わせろ」
と、心の中で思っている。
と同時に、
「こういう思いは、やっぱり変だな」
とも思う。
「何が変なんだろう? どういうふうに思うのが、良い思い方だろう?」
と考え込む。
ここで言う
「良い思い方」
というその「良い」とは、何を基準として言えばいいのでしょうか。
おそらく、
「神様が思われるその思い方に沿った思い方」
が、良い思い方なのだろうと思います。
「それなら、神様はご自分の価値基準に合わない我々の行動パターンをご覧になるとき、どういうふうに思われるのだろう?」
と考えていくと、
「主人」
という言葉が、ふいに目の前に現れてきたのです。
「主人という立場で思えばいい、ということだろうか?」
そう言えば、「主人」にまつわるお父様のみ言葉を思い出しました。
良心には3つの重要な働きがある。真の父母、真の師、真の主人の働きである。
ここから考えると、私がどんな事態に遭遇するとしても、真の父母、真の師、真の主人として判断できれば、その判断が「最も良い判断」「良心的な判断」ということになるのでしょうか。
冒頭に挙げたような思いは、良心的な思いではない。
良心的な思いは真の主人の思いなので、目の前の事態に対しては自分が責任を持とうとするはずです。
「このような事態が現れたのは、私の責任だ」
と思うのが、最も良い思いだと考えられます。
「あの人が節約をしようとしないのは、私の責任だ」
「あの人が老化に甘んじてしまうのは、私の責任だ」
そう思えればいいようなのですが、本当に私の責任なのでしょうか。
そんな何から何まで自分の責任だと思うのはおかしい、人それぞれに負うべき責任があるはずだ。
そんなふうに自分に言い聞かせようともするのですが、
「いや、そうではない。あなたにも必ず責任がある」
という声のようなものを、聞かないわけにはいかないのです。
どうも、その声は良心の声のような気がする。
そして、考えてみる。
「誰かの行動が自分の価値基準に合わないといって、その人を自分なりにもっと良くしてあげられるように、自分にできることはなかったのか。あるのに、それに気づかず、それをしなかった。そうしておいて、その人に問題があるように考えて、批判する。それはおかしい。やはり自分に責任がある」
私が誰かの何かを批判したくなる時、その「誰かの何か」に対して、自分に責任はないという暗黙の前提に立っています。
そうでないと、批判はできないのです。
しかし、誰かの何かに、必ずたとえわずかなりとも自分にも責任があると感じるようになれば、批判するということはできなくなります。
それに大体、節約をしない(ように見える)人、老化に甘んじている(ように見える)人には、その人なりの理由があるのかも知れない。
しかし、そういう内面の気持ちを慮ったことはどれほどあるのか。
聞いてみようともしていないのではないか。
主人の思いを持とうと努力する。
相手のことに責任を持とうとする。
しかし、相手はおそらく、同じようには考えず、自分のことだけ考えているかも知れない。
その時、主人はどうすればいいのか。
相手が私のことを考えてくれなくてもいい。
配慮してくれなくても、あるいは愛してくれなくてもいい。
というか、そのことに左右されない。
主人はただ、
「私はその人に責任を持とうとしているか、その人を愛そうとしているか」
ということにだけ、意識を向ける。
責任を持とうとせず、愛そうとしなければ、それはつまり、主人の負けです。

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