母語が痩せ細っている
読んだのは韓国語版への前書きだけ、本文はまだなのですが、思わず膝を打つ内容だったので、紹介してみようと思います。
その本は、
『街場の文体論
21年間奉職した神戸女学院大学での最後の講義「クリエイティブ・ライティング」に加筆したものです。
前書きを読む限り、内田さんの気がかりは、
「母語が痩せ細っている」
ということです。
母語というのは、言うまでもなく、日本人にとっては日本語。
韓国人なら韓国語。
それが痩せ細るというのは、母語ならざる「英語」が支配的な言語になりつつあるということです。
例えば、最近では、日本人だけの学会でも、発表も質疑応答も英語で行われることがしばしばある。
研究者は英語で論文を読み、英語で論文を書いて、英語で議論する。
大学では英語の授業数が増えている。
留学生数、海外提携校数、英語で開講されている授業数、外国人教員数などが多い学校に、助成金が多く分配される。
それで、どの大学も余計に英語に教育資源を投入するようになる。
一方、初等教育でも同じ流れがあります。
中学高校では英語の授業を英語で行うと定められた。
また、英語の学習開始年齢はさらに引き下げられ、小学校3年生からとなった。
このような実情を眺めながら、内田さんは、
「今後、英語の力を含めて、すべての学力が低下するだろう」
と予測するのです。
英語教育を強めるというのに、英語力はおろか、他の学力まで低下するとは。
この予測は、かなり暗澹たるものです。
なぜこういう予測をするのでしょうか。
「言葉というのは、自転車や計算機のような『道具』ではない。僕たち自身が『言葉』で作られている」
と、内田さんは考える。
内田さんによれば、英語教育推進者たちはそういう
「言葉を使う」
という営みの複雑さを知らない。
私が日本語を使って生活しているということは、私自身が日本語で作られているということです。
日本語は私の血であり、肉であり、骨である。
日本語で考え、日本語で感じているのです。
英語を使うということは、
「英語を母語とする人々のものの考え方、感じ方を我が身に刻み込み、刷り込む」
ということです。
英語による考え方、感じ方の質が悪いという意味ではありません。
ただ、これは私の内部深くまで浸透するものなので、慎重に考えるべきだと、私も思います。
30代から40代にかけて、足掛け7年米国に暮らした体験から実感することがあります。
米国に着くと、年上からはもちろん、年下からでさえ大抵ファーストネームで呼ばれるようになる。
それまで苗字で呼び合う生活に慣れた身には、最初非常に抵抗がありました。
日本語に比べると、英語は上下意識を表現する言葉遣いが乏しいので、その意識も相当薄いのです。
そういう言語環境の中で生活すると、自分の意識の中で、上下関係(組織的にも年齢的にも)に変質を経験するのです。
最初はそれが相当大きな抵抗感を伴うものの、時間がたつにつれて、段々と慣れてくる。
そして、7年間米国で生活して日本に帰って来ると、今度は上下関係を細心に意識せざるを得ない日本社会に窮屈さを感じる。
これは、言葉と意識の関係のごく一面に過ぎませんが、言葉が単なる道具でないことをありありと感じます。
かと言って、外国語を学ぶべきではないと、内田さんが言うのではありません。
母語との比較で、自分たちとは違う宇宙観や倫理観、美意識に触れることで、母語的偏見を揺り動かされる。
さらには、母語運用能力を高めてくれることさえあります。
それでも内田さんが母語を重要視するのは、もう少し深い観点があるのです。
「知的なイノベーションは(ほとんどの場合)母語による思考から生まれる」
母語は私の内部の深層に染みわたっています。
イノベーションは、この深層から湧き出てくる。
残念ながら、ごく一部の天才でもない限り、母語以外でこういうイノベーションを起こすことはほぼ不可能だと思われるのです。
内田さんの言う「知的イノベーション」が具体的にはどういうものか。
本書を読んで、また取り上げてみたいと思います。

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