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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

起死回生のビリギャル

2018/02/02
鑑賞三昧 0
20180202 

映画
「ビリギャル」
は、実話に基づいている。

偏差値30の素行不良気味女子高生が、わずか1年で偏差値を40以上あげて現役で慶應義塾に合格したという、一種の成功物語。
言い得て妙のタイトルです。

お母さんが、とても良い人です。
学校になじめず転校を繰り返した小学校時代から、中高大一貫校に入って次第に不良化する時代まで変わらず、娘のためになるなら何でもやってあげようと思っている。

高校生の時、たばこ所持が見つかって停学処分になるときも、学校に呼び出されると、
「煙草については、よく言い聞かせます。でも、娘は良い子なんです」
と訴える。

親なら誰でもそうでしょうが、単なる親ばかではない。
娘の潜在能力を母親の直観で感じていたのでしょう。

お母さんの次に重要な出会いは、塾の講師。
彼自身も学校の落ちこぼれだったので、同じ境遇の子の気持ちがよく分かる。

高校生レベルの学力はないので、講師はまず小学生のテキストから始める。
時間の余裕はないが、段階的に、そして効率的にレベルを上げる。

学校の担任は彼女のことを
「クズに投入しても、どうしようもない」
と、端から見放すが、それに対して講師は、
「彼女にはすごい可能性があるんです」
と真顔で力説する。

偏差値は上がっていくものの、それでもある期間、合格可能性が「E」(ほぼ不可)から動かない。
彼女は悩み、受験を諦めかける。

映画としては、彼女を軸として、父と母、それから弟、妹など家族との微妙な関係が描かれる。
それはそれで面白いのですが、私が考えたのは、本筋からはちょっとずれるかも知れません。

元々ダメな子ではなかったものの、低きに流れていたビリギャルをあっという間に方向転換させ、尚且つ、一気に上昇させたその力は、一体何だったのか、ということです。

この映画とは別に、あるテレビ番組で観たドッグトレーナーの言葉がダブって、私の頭の中で響きます。

ペットとして飼われていた犬が、突然飼い主を襲い始めることがある。
それが昂じると、飼い主は扱いかねて、仕方なく殺処分にするか、それはあまりに忍びないという場合には、矯正してくれるトレーナーに預けることがあるのです。

持ち込まれた1匹の犬。
うつろな目をして、誰に対しても心をまったく開かない。

この犬には、さすが練達のトレーナーも、
「こういう犬の更生は難しいね」
と、半ば匙を投げる。

どうしてこんな犬になったのか。
1人の飼い主から、2通りの躾を受けたのです。

最初は、あるペット飼育のプロから、厳しい躾を勧められ、有無を言わさない厳しい躾をした。
言うことを聞かないと、叩く、餌をやらない。

すると、常にびくびくして、まったくなつかないので、別のプロに見せたところ、
「こんな躾をしたらだめだ。犬は褒めて褒めて躾けるものです」
と言われた。

それで今度は、どんなことをしても許し、褒めて育てようとした。
すると一転、犬は何でも許されると分かって横柄になった。

その結果、今のような状態になったというのです。

犬でさえ、誰にも心を開かない精神状態というのは、どれほど痛みの体験があったのでしょうか。
躾というものの難しさと、同時に、力の大きさを感じさせられます。

人の子を育てるにも、厳しい躾と褒める躾の両方がありますが、どういう育て方がその子を最も良く育て、持てる能力を最大限に引き出せるのでしょうか。

ビリギャルの場合、お母さんと塾講師は子どもの力を信じ、激励して育てる。
反対に、父親は息子にだけ期待をかけ、2人の娘のことは無視するようなタイプ。
(そのようにする母親にも父親にも、それなりの理由があるのですが)

ビリギャルは当然、事あるごとに父親に反発する。
しかし、胸の内には常に、幼いころ父親の背中に背負われて川の土手を歩いた懐かしい記憶がよぎるのです。

ビリギャルも下手をすると、あの犬のようになっていなかったという保証はない。
育てるというのは、犬でさえ本当に難しい。
まして、人間なら、なおさら。



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