輪ゴムマジック
前回の記事「21日間は、結構長い」の続きです。
「不満を言わない」チャレンジを続けて3か月が過ぎる頃、2つの特筆すべき出来事が起こりました。
一つは、一時的に収入が減って、生活がかなり困窮するようになったこと。
これは数か月間続き、蓄えは底をついたが、父母と同居していたお陰で、何とか乗り越えることができたのです。
もう一つの出来事は、2人の子どもたちに起きました。
息子と娘が一つの部屋を勉強のために使っています。
教科書をはじめとした学校関係の物品、それに服や趣味のものなどで、部屋の中はいつもごった返している。
これは、ちょっと注意したくらいでは、とても片付かない。
半ば諦めていたのですが、3か月が過ぎる頃、私は何も言わないのに、子どもたちが何を思ったか、急に部屋の中を片付け始めたのです。
「お父さん、大きなごみ袋が必要だ」
と言って、不要なものを処分し、残ったものを整理し始める。
「どういう風の吹き回しだろう?」
と、キツネにつままれたようです。
「これは本当に輪ゴムマジックと関連しているのだろうか?」
それは分かりません。
しかし、この2つの出来事を通して、考えさせられました。
一つ目の出来事は、どう見ても有り難くないことです。
そしてもう一つは、有り難いこと。
どうして、こういう真反対のようなことが同時に起こるのだろう?
考えていくうちに、あることに気がつきました。
「有り難いとか、有り難くないとか、これは一体誰が決めているのか?」
自分が勝手に決めていることです。
現象自体に、良いことと悪いことの区別はない。
それが自分にとって得になるのか損になるのかと、その時の状況で自分が判断しているのです。
ということは、この世の現象には「有り難いこと」も「有り難くないこと」もない。
あるのはただ、自分自身がそれを「有り難く思う」か「有り難く思わない」かだけなのではないか。
そこで1年前の出来事を思い出したのです。
2日続けて免許のチケットを切られた出来事は、それ自体「有り難いこと」でも「有り難くないこと」でもなかった。
ただそれを「有り難くないこと」だと、私が判断しただけのことだ。
100万回「有り難う」を唱えたことに、いささかなりとも神意が関わっていたとすれば、その神意はあの時こんなふうに言っていたのかも知れない。
「お前に起こった出来事はどんなことであれ、すべて『有り難い』ことだ。お前がそれを『有り難いことだ』と思いさえすれば」

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