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究極の主管者

kitasendo
20180112


原理講論「復活論」の
「楽園以外の霊人たちの再臨復活」
という項目に、次のようにあります。

このとき、天は悪霊人をして、その罪に対する罰として、この地上人に苦痛を与える業をなさしめる。

「堕落論」第6節には、
「犯罪行為や地獄のような、ご自分が創造されなかった非原理的な存在や行動には干渉し給わない」
とあるので、実際神様がどのように悪霊人と関わって動かされるのか、細かくは分かりません。

「なさしめる」
とは言っても、サタンの要求に対して、神様は許可を与えられるだけかも知れない。
それはちょうど、旧約聖書の「ヨブ記」にあるように。

ただ、ここでのポイントは、この状況の主管者は神様である、ということです。

神様は地上人を復活させようとなさるが、そのためには悪霊の与える苦痛を理由も分からず「甘受」しなければならない。
しかしそれは、成功確率の極めて低い、ほとんど無謀な賭けのようにさえ思えます。

この賭けを、もしサタンが主管していれば、失敗した場合には取り返しがつかない。
それで神様は自らこの状況の主管者になられる。

サタンが主管するのと神様が主管なさるのと、何がどう違うのでしょうか。

サタンが主管すれば、失敗した人を丸ごと持っていってしまい、神様は手をつけることができない。
何らかの功労があったとしても、すべて無視される。
許しもない。

しかし神様が主管されれば、失敗したとしても、一定の蕩減条件を立てることによって、再び挑戦することができる。

我々の人生は、結局のところ、誰に主管されているのか。
堕落した世界の主人はサタンだということがあるのですが、しかし深く考えてみると、究極の主管者はやはり神様であられる。

穿った考えでしょうか。
しかしそう考えれば、我々は人生で常に挑戦し直すことができるという希望を抱くことができます。

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Admin:kitasendo