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使われる命

kitasendo
20180107 

オリンピックでメダルを取ったりして、功成り名を遂げたアスリートが母校に帰って後輩たちに話すときに、大抵は、
「夢を持つことが大事。夢を諦めないで」
というような激励をする。

「私は夢をもって、その道に精進してきたので、こんなふうに成功した。皆さんも同じように頑張れば、そのようにできる」
と言えば、それを聞く者は勇気づけられるだろうという期待があるのでしょう。

そして何よりも、
「夢があること、自分がやりたいことが早いうちからはっきりしていることは、良いことだ、そうあるべきだ」
という人生観が根底にあるように思えます。

しかし、そんなふうに言われると却って悩む若者もいる。
この正月、帰ってきた娘と話してみると、彼女もそういうタイプの一人らしい。
実は、私自身もそのことで悩んできた一人です。

「18歳から24歳くらいの間に、自分のやるべきこと、進むべき道を定めなくてはいけない。正しい生活をする者であれば、それは自然に分かっていく」

今、文献的に探すことができませんが、大体こんな意味のことを文先生のみ言葉で読んだ記憶があります。

それ以来、この枠に当てはまらない自分自身を、「正しい生活者ではない」と見做さざるを得ないできました。
また、子どもはこのみ言葉に沿うように育てなければいけないという思いにも囚われてきたのです。
それでも、なかなか思うようにはいかない。

考えてみると、我々はいろいろな「枠」に囚われて生きているなと思います。
社会が作った「枠」のように思えても、それが結構自分の中に内在化して、その「枠」に入りきれない現実の自分に葛藤を覚える。

さらに、教会員を父母に持つ若者の場合は、
「二世」
とか
「祝福」
という「枠」もある。

それらもかなりの程度内在化されているので、現実との間に葛藤を生むことがあるようです。

創造原理も、見方によっては「枠」のように感じられるのですが、原理は本来、我々の自由を縛ったり制限したりするものではないでしょう。

娘との話で、単なる慰めのようでありながら、その実まんざらその場限りの思いつきではない、こんな話をしました。

人間には大きく二通りあると思うよ。
若くしてはっきりとした夢を持ている人と、生涯なかなか夢を持ていない人。
世の中が進歩していくには前者のような人がいつも一定程度いないといけないが、過半数はそうでない人で世の中は構成されている。

夢を持つ人は「頼む人」で、夢がない人は「頼まれる人」。

夢を持つ人はそれを実現するために行動を起こすが、自分だけの力でそれを実現することはできない。
それで必ず、自分の夢を助ける人を探して、その人に助力を「頼む」。

「頼まれた人」は、自分の夢ではないけれど、それを実現するために自分が持っている力を貸してあげる。

何かより大きなことを成そうとすれば、「頼む人」も必要だが、必ず「頼まれる人」も必要だ。
どちらかが他方よりも優れているとか劣っているとかという話ではない。

「使命」
という言葉は、
「使う命」
とも読めるし、
「使われる命」
とも読める。

「頼まれる人」の「使命」は「使われる命」として貢献すること。
受け身のようだが、そういう人は絶対に必要だと思う。

但し、「頼まれる人」は頼まれたときにいつでも「使われる命」として貢献できるよう、日ごろから自分の命を磨いておく必要がある。

「頼まれる人になろう、使われる命になろう」
というのも、また一つの夢かもしれない。

娘は特別の反応もせずに聞いていたけど、どんなふうに考えただろう?

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Admin:kitasendo