「有り難い」という言葉の力
先日の記事「有り難いことの偶然と必然」の続きです。
「有り難い」ことは、どのようにして私の身に起こるか。
普通の考えでは、私に徳があるとか、誰かに親切を施すなどすれば、その結果として「有り難い」ことが起こり、その逆だと「有り難くない」ことが起こる。
善因善果、悪因悪果です。
しかし特別な徳でもなく親切でもなくても、「有り難い」という言葉自体にも力があるという話を聞くのです。
言霊信仰のようでもあります。
本当にそうか、私は一つの実験を試みることにしました。
当時、50代にもうすぐ手が届く頃で、その年齢の2万倍、つまり100万回「有り難う」を唱えてみる。
これは特に善行と言うものではない。
それでもその結果、何か「有り難い」ことが起こるかどうか。
数か月間、ただひたすら唱え続けてみました。
特定の対象もないので、唱えるのに、心はこもっていません。
大人気のない、馬鹿げたことだとも思いながら、それでも心の片隅には、「有り難いことの秘密の扉」に近づくかもしれないという、当てにならない期待もあったのです。
すると、思いがけないことが起こったのです。
100万回と言っても自分で数えるのですから、正確ではない。
自分なりに達成したと思った、その翌日のことです。
仕事を終えて帰宅したのち、用事があって子どもを乗せて車で街に出た。
毎日通る道のT字路に差し掛かった時、携帯が鳴りました。
携帯を左手に持って耳に当て、T字路を左折し、100メートルほど走ったところで、警察の検問に引っ掛かったのです。
毎日通る道なのに、これまで一度としてそんなところで検問など見たことがない。
警官がやってきて、
「お宅、なぜ止められたか分かってますね」
と言う。
運転中の携帯。
左折時の一時不停止。
おまけに気がついてみると、シートベルトの不着用。
言い逃れる道はない。
ひどい減点と多額の罰金も覚悟しました。
「随分まずいね。まあでも今日のところは、シートベルト不着用だけで切っておきましょうか」
と警官。
「お父さん、不幸中の幸いだったね」
と子どもたち。
しかし、私は腑に落ちない。
どうして、よりによってT字路直前で携帯がかかってくるのか、しかも100万回の翌日に?
最悪のタイミング。
何だか、わだかまりが残る。
ところで、その翌日。
また、思いがけないことが起こったのです。
仕事で2時間ほど離れた大きな町へ出張しました。
その帰り道、いつも走る高速道路なのに、分岐でついうっかり曲がり損ね、引き返すわけにもいかず、遠回りをして帰ることになったのです。
日も暮れかけ、焦る気持ちもあったのでしょう、スピードが出ました。
すると、赤いランプがちらちらとして横目に入る。
アッと思ったら、間もなく検問のパトカーが追いかけてくる。
「お宅、20キロオーバーですね」
と言われ、またチケットを切られる。
ところが今回は、それだけではない。
昨日の減点の上に今日の減点が加算されて、持ち点がゼロになり、「免許証再交付のために1日講習を受けてください」と言うのです。
運転中の携帯、T字路での一時不停止、シートベルト不着用、スピード違反。
すべては私に非があります。
言い訳はできませんが、こんな事態が2日たち続けに起こるなど、50年の生涯で初めてのことです。
尋常でないことも1回だけなら、「偶然」と見做すこともできます。
しかし2回続けて、しかも立て続けに起これば、それは「偶然」ではなく何らかの「必然」。
少し大袈裟に言えば、「天啓」の可能性を疑ってみるというのが、私の考えです。
私に非がある。
しかし、一見「有り難くない」ことが、どうして100万回の翌日と翌々日に起こるのか?
どうして、もっと普通に「有り難い」ことが起こらないのか?
「こんな運転を続ければ、今後が危うい」
という警告と受け取れば、有り難くないこともないと思えますが、何か他にも意味があるのか。
私に一つの課題を残してくれたことは確かです。
この課題は、その後1年ほどくすぶり続け、もう一つの体験を通して、次の天啓へと進むことになるのです。

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