堕落性の種
堕落性というものについて、原理講論は、
「天使が神に反逆してエバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じた性稟が、堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という」
と説明しています。
これを見ると、堕落性を誘発する種のようなものが天使長に起源をもち、それがエバからアダムに、そしてその子孫へと伝播されてきたように見えます。
エデンの園で堕落に関わった3人の心の内を見ると、それぞれ違う要素とともに、共通するものがあると、私には思えるのです。
例えば、天使長の中には、
① 愛の減少感
「私の能力と実績とが正当に評価されていない。神様はなぜ私よりもアダムを重んじられるのか?」
② 位置への執着心
「これまでの位置を保ちたい。新しい主人に無条件で仕えたくない」
というような思いが錯綜していたことが、原理講論から伺えます。
そしてエバには、
① 過分な欲望(時ならぬ時に時のものを願った)
があり、さらにアダムには、
① 自分なりの愛でエバを救おうとした
自己過信(というよりはむしろ、愛の幼さか? あるいは神様との何らかの距離か? よく分かりません)があった。
三者三様に問題を抱えていたようですが、一つ共通点があると思うのです。
それが
「恐怖心」
です。
天使長の心中にあった恐怖心は、関係を結んだエバに伝わり、それはさらにアダムにも及んだ。
しかし恐怖心はただ伝わったのではなく、3人それぞれの中にそれを感じる理由があったのです。
良心の働きが、それです。
堕落論で「本心の自由」を論じる際に、
「原理を離れた自由はない」
とありますが、それはそのまま良心にも当てはまり、
「原理を離れた良心はない」
とも言えます。
それゆえに、彼らが戒めに反し、原理軌道を逸脱しようとしているとき、良心は呵責を起こし、原理軌道に戻すべく「恐怖心」を作り出したのです。
その意味では、堕落とは、良心の声に反したことであり、恐怖心を押さえつけて反良心の道を突き進んだことだと言えます。
そうすると、堕落性について、このように考えることができます。
堕落性本性とは良心の声に耳をふさぐ性質であり、堕落の生活は良心の声を聴かないようにすることで安心を得ようとする生活である、と。
このような性質の種が、エデンの園で堕落の時に作られ、その種があるゆえに、我々はすべて良心の声を聴かない生活に落ち込んで、そこで安定を得ようとするようになった。
実際、世の中で暮らすのに良心の声を聴いて暮らそうとすれば、とても辛いことが多いのです。
「他の人たちはみな思いのまま自分勝手に生きているのに、なぜ私だけ良心の声に従わなければいけないのか」
と思うようなことがどれほど多いか。
だから、人は弁解することで、良心に従えない自分を正当化するしかないのです。
その際立った例が、堕落直後のアダムとエバです。
「取って食べるなと言っておいたあの木から、お前たちはなぜ取って食べたのか?」
という神様の問いかけに、アダムもエバも弁解で答えました。
神様は2人の良心に問いかけたのですが、2人とも良心の声をふさいで答えた。
アダムは、
「私と一緒にしてくださったあの女が木から取ってくれたので食べた」
と言い、エバも、
「蛇に騙されて食べた」
と答えたのです。
そうでも答えないと、良心の呵責に耐えられないのです。

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